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ヒストリー

ヒロシマの記録1966 11月


1966/11/1
広島市の原爆ドーム保存募金運動がスタート。1967年2月末までに4,000万円が目標。市の募金事務局が趣意書2万枚を全国の市町村、報道機関、労組、民間団体などに配布へ。市議会と対立したままの開始。既に全国からは113件、117万円の募金が集まる
1966/11/1
内閣放射能対策本部が中国核ミサイル実験によるとみられる放射能降下物の検出状況を発表。新潟大医学部は2,000~4,100マイクロ・マイクロキュリーの強放射能粒子9個を検出。広島では検出なし。浮遊じん中の放射能は地表付近、高空とも平常値。対策本部は「爆発規模はかなり小さく、比較的低い対流圏内で行われた」と推定
1966/11/1
第2回日印定期協議が閉幕。アジアの軍縮、核拡散防止など3日間討議。中国核ミサイル実験に対しインドが「中国の脅威が一層現実的になった。インドとしては非同盟路線を堅持するが、外からの脅威に対してはあくまで抵抗する」との見解を表明
1966/11/2
国連総会第1委員会が「核拡散防止条約の締結を阻害する行為の否認」に関する45カ国共同決議案を可決。4日、国連総会本会議でも可決
1966/11/2
原子力委員会の原子炉安全専門審査会が、「福島県内に建設予定の東京電力の原子力発電所計画は安全性が確認された」と同委員会に報告
1966/11/2
広島大理学部放射能研究室が100平方メートル当たり200マイクロ・マイクロキュリーの放射能粒子1個を検出
1966/11/3
佐藤首相がAP通信特派員に核兵器開発について語る。「中国が核ミサイル実験に成功しても、日本は核攻撃に対する安全保障を引き続き米に依存する。日本は核兵器開発はしない。あくまで核拡散防止を目指す」
1966/11/3
第20回毎日出版文化賞に中国新聞社の原爆報道を再編集した「広島の記録」(全3冊)が選ばれ、表彰式
1966/11/4
広島滞在中の米オレゴン州ルイス・アンド・クラーク大の学生19人が平和記念館で広島市原爆被爆者協議会(任都栗司会長)の被爆者と懇談
1966/11/5
総評の安恒良一政治福祉局長が広島市役所を訪れ、原爆ドーム保存募金を協議。原水禁国民会議を中心に目標額4,000万円のうち1,000万円の募金を約束
1966/11/5
原水禁国民会議が被爆者救援資金100万円、原爆小頭症児の救援金1万円を広島県原水禁(森滝市郎理事長)に届ける
1966/11/5
佐藤首相が札幌市での「一日内閣」の席上、中国核ミサイル実験について言明。「われわれ国民の心からの訴えにもかかわらず、中国が核実験を継続していることには憤りを感じている。国際社会が考えているのは核拡散防止、核軍縮であって、中国は国際世論とは別の方向をたどっている」
1966/11/6
フィリピンの週刊誌グラフィックの総支配人が北ベトナムのファン・バン・ドン首相とハノイで会見。首相は「われわれは米の核兵器使用も恐れていない」と語る。見解は16日発行の同誌に掲載
1966/11/7
広島大理学部放射能研究室が広島地方の雨(6日)から1cc当たり0.27マイクロ・マイクロキュリーの放射能を検出、平常値の27倍。米子測候所は同1.5マイクロ・マイクロキュリーを検出
1966/11/7
実践倫理宏正会が浜井広島市長に原爆ドーム保存募金100万円を贈る
1966/11/7
米週刊誌USニューズ・アンド・ワールドリポートが「中国がミサイル核実験に成功した結果、米が日本国内の基地に核ミサイルを持ち込むことを日本が認める可能性が出てきた」と報道
1966/11/7
米の中国問題専門家、鄭竹園博士がUSニューズ・アンド・ワールドリポート誌のインタビューで「中国は1972年までに米に到達できる長距離弾道ミサイルを保持する」と予測
1966/11/7
米戦記作家ジョン・トーランド氏が広島市を訪れ、浜井市長から原爆被災状況などを聞く
1966/11/8
北朝鮮の朴世昌中国駐在大使が「米は韓国にミサイルと核弾頭を貯蔵している」と非難した-と新華社通信が伝える
1966/11/10
国連総会第1委員会が、核拡散防止の47カ国共同決議案を可決。核拡散防止条約の締結促進と核保有国が非核保有国に核攻撃や威圧をしない保証を与える内容。17日には国連総会本会議でも可決
1966/11/10
原水禁国民会議の代表3人が「戦争の危険に反対する国際会議」(インド・ニューデリーで13~16日)に参加のため日本を出発。各国代表に原爆ドーム保存募金への協力を呼びかけへ
1966/11/10
米原子力潜水艦ノーチラスが10日、米ノースカロライナ州沖の大西洋を潜航中、米海軍空母エセックスと水中衝突し、上部甲板部を破損。米海軍が発表
1966/11/11
日本被団協の森滝市郎理事長らが厚生省に「原爆被害者援護審議会」の早期設置と援護対策の推進を陳情。鈴木善幸厚相は審議会設置に賛成し、「1967年度予算に織り込むよう検討したい」と答える
1966/11/11
原爆ドーム保存の募金スタンドが広島市役所と南庁舎玄関、平和記念館、原爆資料館の4カ所に
1966/11/11
米国務省がドブルイニン駐米ソ連大使を招き、ソ連大型核爆発(10月27日)の情報提供を求める
1966/11/12
11年前、渡米した広島の原爆乙女の世話をした米ニューヨークのマウント・サイナイ病院の理事ウィリアム・ヒッチグ博士が広島を訪問。14日、浜井市長らにノーマン・カズンズ氏から託された米ヒロシマ・ピース・センター協会の平和の盾を贈る。帰国した原爆乙女24人のうち2人が死亡、3人が米、カナダに渡る
1966/11/13
バートランド・ラッセル卿が提案したベトナム戦争犯罪国際裁判の準備会議がロンドンで開会。国際裁判の判事役16人を選び、16日発表。ラッセル卿、ジャン・ポール・サルトル氏、シモーヌ・ド・ボーボワール女史や坂田昌一名大教授、森川金寿自由人権協会副理事長ら
1966/11/14
自民党広島県連が原爆ドーム保存への積極協力を決め、広島市に10万円を寄付
1966/11/14
仏舎利を安置した広島市二葉山の平和塔の寄贈を同市が受けたことに対し、広島市議会各派代表者会議が「特定宗教団体に便益を与える結果を招き、憲法違反の疑いもある」と批判。市側と対立
1966/11/15
原爆被爆者救援金10万元(約1,500万円)が中国から日中友好協会正統本部(反共産党系)を通じて贈られる-と同本部が発表。これまで日本原水協を窓口にしていた中国の被爆者救援金が、中国と原水協の関係悪化で日中友好協会を通じた送金に
1966/11/15
カナダのマーチン外相が訪問中のイタリアで「核拡散防止条約の早期実現に努力する」との共同声明を発表
1966/11/16
米空軍爆撃機が8月、プエルトリコ近海の海上で水爆1個を誤って投下。米オークランド・トリビューン紙が伝える。訓練飛行中に発生、水爆は回収。米国防総省は「海軍ジェット機1機が7月30日、誤って訓練用兵器1個を落としたが、核物質は含まれていない」と否定
1966/11/16
米原子力潜水艦2隻がベトナム水域で監視行動-。米第7艦隊スポークスマンが明かす
1966/11/16
ソ連作家同盟の副会長ソボレフ氏ら一行5人が広島を訪問。原爆慰霊碑参拝、広島原爆病院慰問
1966/11/17
江津市有福に建設される原爆被爆者温泉療養所の運営について、広島、江津両市の関係者が「利用者の料金で独立採算制にする」との申し合わせに調印。調印内容は(1)原対協は施設を無償で地元法人に貸与(2)運営は独立採算制(3)利用者は原則として被爆者に限る-が骨子。1967年3月完成予定
1966/11/17
英で被爆体験を訴えた広島の被爆者、下江武介さん(広島県芦品郡協和村)が帰国。12月4日には浜井広島市長を訪ね、英バロー市のパンション市長からの平和メッセージを手渡す
1966/11/18
中国電力の山根寛作常務らが島根県や同県八束郡鹿島町を訪れ、「原子力発電所の建設第1候補地を鹿島町に決めた」と発表。調査、建設への地元協力を要請。県、町は調査協力を約束
1966/11/18
モスクワ放送がソ連戦略ロケット軍総副司令官トルプコ大将の言明を伝える。「ソ連の大陸間ロケット発射基地は高水準にオート化されており、ロケットの準備から発射までの時間は秒で数えられる」
1966/11/19
ソ連レニングラード市のA・A・シゾフ市長ら一行4人が広島市役所を訪れ、浜井市長と懇談。原爆慰霊碑に参拝、原爆資料館を見学
1966/11/21
米ニューヨークのヒロシマ・ピース・センター協力会(ノーマン・カズンズ会長)から原爆ドーム保存募金の海外第1号として500ドル(約18万円)が届く
1966/11/21
日本、リベリア、ユーゴ3国が、ジュネーブ軍縮委員会の非同盟8カ国が提案したすべての核実験停止、地下核実験禁止決議案の共同提案国に参加と発表
1966/11/22
原爆ドーム保存募金の全面支援を決めた世界平和アピール7人委員会の湯川秀樹京大教授ら3人が建設省に政府の資金援助を要請。橋本登美三郎建設相は「寄付できないが、ドームが公園の一施設とみて都市公園整備の建前から施設補修費の予算化は可能」と協力を約束
1966/11/22
松井明国連代表が国連総会第1委員会で演説。部分核停条約の締結後も仏、中国が大気圏内核実験を行ったことに遺憾を表明し、「核拡散防止条約を促進するためにも、地下核実験停止を含む全面核停条約の早期締結が必要」と強調
1966/11/22
島根県八束郡鹿島町の町議会全員協議会が、中国電力の原子力発電所の建設問題を初協議。一部革新系議員を除き、調査協力を申し合わせ
1966/11/22
日本原子力発電会社がワシントン輸出入銀行と3,521万ドル借款協定に調印。同社が敦賀市に建設する第2号原子炉の建設に使う
1966/11/22
原子物理学者の故仁科芳雄博士の胸像移転除幕式が岡山市の岡山大理学部前庭であり、約80人が参列。同市の烏城公園から移す
1966/11/23
国連総会第1委員会が「核兵器の影響について研究する決議案」(日本など33カ国共同提案)と「ジュネーブ軍縮委員会に全面完全軍縮討議を促進するよう求める決議案」(非同盟8カ国共同提案)をそれぞれ可決
1966/11/23
広島テレビの芸術祭テレビ・ドキュメンタリー部門参加作品「人間、そのたくましきもの」が完成し、放映。広島市の被爆者夫婦の日常生活を通じ、生命の尊さを描く。芸術祭同部門への参加は中四国局で初めて
1966/11/23
原爆などの戦災孤児の収容施設から始まった広島市似島の似島学園が開園20周年式
1966/11/24
国連総会第1委員会があらゆる核実験停止を求めた日本など12カ国提案の決議案を採択。仏、中国に部分核停条約への参加を呼びかけるとともに、米ソに全面軍縮への足がかりとして地下核実験の停止を求める
1966/11/25
世界連邦西日本大会が広島市の広島大学会館で開会。約350人が参加。横田喜三郎前最高裁長官、谷川徹三前法政大学長が基調講演の後、分科会。ベトナム戦争の軍事行動停止など3項目と原爆ドーム保存募金運動への協力を決議
1966/11/26
米ソ両国が宇宙条約について基本的に意見一致し、条約草案が国連総会第1委員会に提出の見通し-と米消息筋が語る
1966/11/27
「みんなで平和を-ヒロシマからベトナムへ」集会が中国新聞3階ホールで開かれる。「ベトナムに平和を!市民文化団体連合(ベ平連)」や広島YMCA青年成人部、ワールド・フレンドシップ・センターの3団体主催で約250人が参加
1966/11/28
原爆ドーム保存募金で、浜井広島市長が東京・平河町の都市センターに政党、労組、婦人、平和団体などの代表を招き、協力支援を要請。浜井市長は「恨みの遺物としてでなく、平和祈願のためいつまでも残したい。市費よりも広く求めた浄財で補修するほうが意義深い」と強調。各団体は組織協力を約束
1966/11/28
核禁会議が被爆者救援金80万円を核禁広島県民会議に55万円、同長崎に25万円を配分決定
1966/11/28
ソ連の第1回研究留学生として滞日中のモスクワ大学院生、ドルジーニンさんが広島市を訪問。原爆、平和問題で懇談
1966/11/30
広島市と広島県が合同で取り組んだ原爆スラム対策の実態調査がまとまる。住宅対策の基礎資料。同市内の原爆スラムは基町地区を中心に63地区に散在、5,449戸、6,256世帯にのぼる。うち被爆者は1,906戸、2,160世帯で3割強を占める
1966/11/30
原爆ドーム南側の広島市大手町2丁目、元安川東岸の不法住宅16戸、37世帯を広島県が取り壊し。同地区の不法住宅はほぼ撤去。住民は仮設住宅に移転済み

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