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ヒストリー

ヒロシマの記録1965 10月


1965/10/2
広島県議会が国に対し、完全な原爆被災調査の実施を全員一致で可決。「11月1日、国は被爆者の全国実態調査を実施するが、この調査は被爆死亡者を含まず、生活、健康調査は抽出調査で、原爆被爆者の実態を科学的、国際的に権威あるものにするのは不可能。すみやかに全面的な実態調査と被爆関係資料を収集し、被爆者援護対策を一層強めるよう要望する」
1965/10/3
広島市宇品町の広島「憩いの家」で、「被爆者の集い」1,000回記念祝賀会。参加人員延べ5万3,000人。1964年、パール・バック女史、バートランド・ラッセル博士ら国際的文化人約2,000人をメンバーとする国際協力委員会広島ハウス財団(事務局ニューヨーク)が発足、2カ月に1度の割で被爆者救援の定期便
1965/10/5
4歳のとき広島市で被爆した韓国人被爆者、李玉連さんが急性悪性貧血のため広島市内の病院に入院、国籍を超えた献血相次ぐ
1965/10/12
ワールド・フレンドシップ・センターが理事会で被爆孤老施設の開設決める。広島市南観音町の事務所の近くに家屋を借り上げ。4人の入居者決まる
1965/10/13
ロバート・ケネディ米上院議員が議会で(1)ジュネーブ軍縮会議への中国参加(2)核拡散防止条約交渉で米はソ連に弾力的な態度を(3)中南米に非核武装地帯を設置する(4)部分核停条約に地下核実験も含める(5)多角的核戦力を再検討-などを提唱
1965/10/13
「米太平洋潜水艦隊所属の原子力潜水艦サーゴとバーブがハワイ・オアフ島沖で、潜水訓練中に衝突。死傷者はなし」。米海軍スポークスマンが発表
1965/10/16
広島市で第7回原爆後障害研究会。被爆20周年でこれまでの総まとめ。(1)白血病はやや減少の傾向。20年間に広島での被爆者の白血病患者は192人。白内障も進行性はほとんど見られない(2)がんは今後とも重視する必要がある(3)遺伝についての影響は小頭症を除いてはっきりしない-など。広島大の田淵昭教授が「ABCCで小頭症と発表されたものは24人。死亡者を除き現在も重度小頭症は12人。広い意味では45人」と発表
1965/10/18
国連総会第1委員会(政治、安全保障問題)が核拡散防止問題の討議に入る。フェドレンコ・ソ連代表「西ドイツに核兵器を持たせる多角的核戦力(MLF)などが撤回されない限り、核拡散防止協定の意味はない」。フォスター米代表「ソ連案はNATOへの偏見にとらわれている。MLF構想は核拡散防止条約と矛盾しない」
1965/10/19
インドのシャストリ首相が「インドは核兵器を製造しない政策を堅持する」と述べる
1965/10/20
陸上自衛隊第13師団(広島県安芸郡海田町)が自衛隊発足15周年記念日の10月31日に平和記念公園で戦車、砲、車両180両、隊員1,600人による観閲行進を計画。広島市は許可。社会党県本部が使用許可の取り消しを申し入れ、被爆者団体なども反発
1965/10/21
浜井広島市長が自衛隊の平和記念公園観閲行進で「使用許可を取り消す考えはない」。「幹部だけが原爆慰霊碑に参拝すると聞いている。現在の自衛隊は挑戦的な軍隊ではないので平和大通りで観閲行進するのは差し支えないと思う」。22日の広島市会でも(1)隊員の参拝は自由(2)戦車など重量物の使用で道路を破損しないよう条件をつけている(3)平和大通りグリーンベルトへの観閲台設置も断る理由がない-と答弁
1965/10/23
ワールド・フレンドシップ・センター(広島市南観音町、原田東岷理事長)が開所式。農家2軒を借りて設立、養護院には原爆孤老3人を収容
1965/10/23
社会党県本部、広島県労会議が陸上自衛隊第13師団(渡辺利亥師団長)に、「平和公園での観閲行進中止」申し入れ。「儀礼装備とはいえ、武器を持って平和記念公園に入ることは被爆地市民にとってやりきれない」。湯川文雄幕僚長「地元の師団として市民感情に少しでも近づこうと原爆慰霊碑への集団参拝を計画した。自衛隊の純粋な気持ちをくんでほしい」
1965/10/25
広島県労会議、安保破棄広島実行委員会が、自衛隊の平和記念公園使用問題で31日に同公園で抗議集会の開催決める
1965/10/25
平和記念公園の自衛隊使用に抗議し、原爆慰霊碑前に広島大生有志6人が無許可でテントを張って泊まり込み
1965/10/25
広島県青年連合会(入駒凱太会長、1万1,000人)が自衛隊の平和大通り観閲行進中止を要請する声明書を発表
1965/10/26
浜井広島市長が渡辺利亥陸上自衛隊第13師団長に会い、平和公園問題で反対運動が高まっていると伝える。渡辺師団長は「平和都市広島の師団として市民感情を尊重し、トラブルを避けたい」と計画変更を約束
1965/10/26
日本原水協が主催し東京・九段会館で「被爆者救援国会請願大会」。「日米両国政府は被爆者のあらゆる損害を賠償せよ」と決議
1965/10/26
民社党広島県連(内海清会長)が平和記念公園自衛隊パレード問題で、「反対はしないが、混乱を恐れるため広島市長は再度、自衛隊と話し合いを」と要望。広島大教養部学友会は自衛隊の使用許可に反対の決議
1965/10/27
平和記念公園、平和大通りでの自衛隊観閲行進。自衛隊が計画変更で決着。慰霊碑参拝は渡辺利亥師団長ら数人が外出用服装の普通礼服で、隊員は個々の立場で参拝。観閲行進は広島市中町の白神社から東寄りの平和大通りを使う。F86Fジェット戦闘機など21機が参加するが、平和記念公園上空は飛ばない。自衛隊声明「国民とともにある自衛隊の姿を市民にみてもらおうとする計画は多くの市民の支持にもかかわらず紛糾を予想されたため、真剣に計画変更を検討中、浜井市長からの申し入れもあり、師団としても異存なく変更した」。浜井市長「市長としての権限ではなく、反対運動も起きているので、できるならば観閲行進の場所を平和公園付近から変えてほしいと伝えた。自衛隊側が自発的に計画を変更したので解決したのだが、市民は譲歩した自衛隊の意をくんでほしいと思う」
1965/10/29
米がアリューシャン列島アムチトカ島の地下700メートルで核実験。80キロトン。地下核実験と天然の地震とを識別するのが目的
1965/10/29
広島市で開かれた第3回ソビエト映画祭の代表団長フィリッポフ氏、俳優セルゴ・ザカリアーゼ氏らが原爆慰霊碑に参拝
1965/10/30
長崎原爆遺族会が発会式。会長は杉本亀吉氏(「長崎年表」)
1965/10/30
日米労組交流で来日中の全米自動車国際労組教育部長キャロル・ハットン氏らが原爆慰霊碑に参拝
1965/10/30
特別被爆者の範囲拡大に対し、「わずかの差で手帳をもらえない。納得できない」との投書が中国新聞に相次ぐ
1965/10/31
陸上自衛隊第13師団の渡辺利亥師団長ら幹部30人が原爆慰霊碑に参拝。共産党系の労組員ら約200人が「自衛隊は帰れ」のシュプレヒコール。中町白神社東の平和大通りで隊員1,600人が分列行進、続いて戦車14両、大砲14門、無反動砲16門など車両約200両が行進。観閲台から渡辺師団長のほか永野厳雄広島県知事らが観閲
1965/10/31
社会党と総評の招きで来日中のソ連の宇宙飛行士テレシコワ、ニコラエフ夫妻が広島を訪れ、原爆病院を慰問。原爆慰霊碑にも参拝
1965/10/--
ドイツの哲学者カール・ヤスパース博士の著書「原爆と人間の将来」が翻訳、出版へ。翻訳者は和歌山県田辺市、大阪歯科大の細尾登医師
1965/10/--
日本弁護士連合会(日弁連)司法制度調査会が被爆者援護で現行原爆医療法を大幅に拡充した「原爆被爆者等援護法」をまとめる。広島弁護士会の原案を検討、単独立法より改正の方が実現が早いと結論。23日、松江市で開く中国弁護士大会で制定推進を決議へ
1965/10/--
原爆資料保存会(横田工会長)が原爆関係文献目録を出版。B6判、64ページ。原爆資料館の原爆記念文庫にある約2,000点の資料を収録
1965/10/--
米コロンビア映画「博士の異常な愛情」が東京封切り。スタンリー・カブリック監督(「原爆被災資料総目録・第2集」)

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