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ヒストリー

ヒロシマの記録1965 11月


1965/11/1
厚生省の「原子爆弾被爆者実態調査」が始まる。予算3,200万円、対象者28万人。被爆者健康手帳保持者以外に(1)原爆投下当時、広島、長崎市の隣接地域に住んでいた人(2)投下から2週間以内に爆心地付近に入った人(3)遺体処理などで放射能の影響を受けた人-なども調査
1965/11/3
持田勝穂氏作詞、森脇憲三氏作曲の「組曲ひろしま」を広島市公会堂で発表(「原爆被災資料総目録・第2集」)
1965/11/7
東大地震研究所が広島県高田郡白木町に建設した白木微小地震観測所(責任者、茅野一郎氏)が開所式。大河内一男東大学長らが出席。大河内学長「施設は純学術的なもので米の地下核実験探知に利用されるというのは誤解だ。世界標準地震観測網の一観測点であり、将来、同観測所を基点に6、7カ所に衛星観測点を設ける」
1965/11/10
日本の商業用原子力発電第1号、日本原子力発電会社の東海原子力発電所(コールダーホール改良型、電気出力16万6,000キロワット)が商用発電を開始。5月4日の臨界以来、190日目
1965/11/15
原爆小頭症患者の1人、静岡県熱海市、佐々木キヌ子さんが原爆症による心臓衰弱のため広島原爆病院で死去。19歳。6カ月で胎内被爆
1965/11/15
広島大工学部の佐藤重夫教授が「原爆ドームは補強すれば保存できる」と中間報告。年内に結論
1965/11/15
被爆の証人を捜していた岩国市の山口繁貴さんが尋ね人と再会。山口さんは旅行中、広島駅で被爆、広島県高田郡白木町の仮病舎に収容された。同じ病舎にいた被爆者を捜していた
1965/11/15
ニューヨークの彫刻家チャールス・キーフエさんからブロンズ製の胸像「日本女性の像」が届く
1965/11/16
財団法人長崎原子爆弾被爆者対策協議会(会長、田川務市長)が南高小浜町に建設中の原爆被爆者小浜温泉保養所「大和荘」が完成(「長崎年表」)
1965/11/18
共産党系の広島県被団協(田辺勝理事長)と広島県原水協(鈴木直吉会長)が広島市に「被爆者手帳申請で証言者ばかりを求めず、被爆者自身の証言を重視せよ」と申し入れ
1965/11/19
国連総会がジュネーブの18カ国軍縮委員会を早急に再開し、核兵器拡散防止条約を最優先討議するよう求める決議案を可決。米、英、ソは賛成、仏は棄権
1965/11/21
米政府原子力委員会が「ソ連はセミパラチンスク実験場で地下核実験を実施した」と発表。米が探知したソ連の地下核実験はこの年、3回目
1965/11/23
国連総会第1委員会が中国を含む世界軍縮会議招集に関する43カ国共同決議案を反対なし、棄権1(フランス)で可決。台湾は投票に参加せず
1965/11/24
佐世保港に米原潜シードラゴンが入港。米原潜の佐世保入港は5回目。社共が抗議集会。原潜反対市民会議による約600人の主婦のエプロンデモも
1965/11/24
米原潜の佐世保入港で公明党が「政府に今後一切の寄港を拒否するよう要求する」との声明を発表
1965/11/25
国連総会第1委員会で、地下を含むすべての核実験の停止を要求した決議案に日本も参加
1965/11/26
米海軍が第7艦隊に原子力空母エンタープライズ(75,700トン)を配備、と発表
1965/11/26
フランスが国産人工衛星A-1の打ち上げに成功
1965/11/26
国連総会第1委員会(政治、安全保障)が「すべての核実験停止を要請する」との35カ国決議案を可決。ルーマニアを除く共産圏とフランスなどは棄権
1965/11/27
マクナマラ米国防長官が「米の核弾頭は1万個以上に達し、現在も急速に増大している」と言明。「5,000個以上が米戦略部隊に、5,000個以上を西欧の米軍および同盟国軍のために貯蔵。今後6カ月で20%増大」
1965/11/28
NHKテレビが広島の歌人、正田篠枝さんの半生を描く「耳鳴り」を放送
1965/11/30
原爆、平和をテーマにした劇映画「平和」のロケでインドの撮影隊が広島入り。モハン・クマール監督ら16人
1965/11/--
被爆時に腰に受けた長さ2.5センチのガラスの破片が20年ぶりに足から見つかる。広島市東平塚町の藤川アサさん

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