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ヒストリー

ヒロシマの記録1964 4月


1964/4/1
ビキニ水爆実験の死の灰をかぶったマーシャル諸島の住民を米政府原子力委員会の医療調査団とともに調査した熊取敏之博士(放射線医学総合研究所第1臨床研究室長)が中国新聞に手記。「ロンゲラップ島で10年前に被曝した住民64人のうち50人が生存している」
1964/4/3
スースロフ・ソ連共産党書記が「ソ連が中国への原爆供与を拒否したのは、西ドイツ、日本などへの核拡散を招くことになるからだ」と演説
1964/4/3
衆院本会議が原爆被爆者援護強化に関する決議案を全会一致で可決。「原爆医療法は、原爆被害者に対する施策としては十分とは認めがたい。政府はすみやかに援護措置を拡充強化し、生活の安定を図るよう努めるべき」
1964/4/6
広島市議会が全員協議会で、衆参両院の被爆者援護決議を具体化させるために必要な予算措置や政府への働きかけ強化を全員一致で決める
1964/4/8
マッカーサー元帥が1954年に語った秘話を、米ハースト・ヘッドライン・サービスのR・コンシダイン記者が公表。「原爆30個ないし50個を鴨緑江の対岸にある敵の空軍基地などに夜間投下して、10日間で朝鮮戦争を片づけただろう」。ニューヨーク・ワールド・テレグラム・アンド・サン紙も「鴨緑江沿いに幅8キロの放射性コバルト地帯を設定する作戦を立てたが、英や国務省の反対で実現しなかった」と同年にマ元帥が語った会見記を掲載
1964/4/8
原水爆被災3県連絡会議が方針発表。(1)日本原水協とは別に新しい国民運動を展開(2)全国の団体、個人に参加を呼びかけ、原水禁運動を真の国民運動に戻す(3)1964年の8・6広島大会、8・9長崎大会を独自に開催する
1964/4/9
全国地域婦人団体連絡協議会、日本青年団協議会が日本原水協に脱退届。(1)第9回原水禁世界大会以降、原水協は事実上機能停止状態にある(2)第9回大会は「いかなる国の核実験にも反対」という原則を踏みにじり、部分核停条約の評価を誤った-との理由
1964/4/9
広島市議会原爆被害者対策促進委員会(任都栗司委員長)が運動方針決める。被爆者健康手帳の交付範囲拡大、被爆者健康管理センター新設、原爆スラム解消など13項目
1964/4/9
マッカサー元帥の側近だったホイットニー少将がサン紙の会見記は作り物と反論。ウィロビー少将は会見記は正しいと述べる
1964/4/11
「平和の鐘」が広島市に到着。香取正彦氏の制作(「ヒロシマの記録」)
1964/4/11
原爆ドームの崩壊の危険が強くなり、広島市が西側の民家1戸に立ち退きを指示
1964/4/11
広島・長崎世界平和巡礼資金の街頭募金が広島市内で始まる。12日まで。広島市キリスト教連合婦人会と日本基督教婦人矯風会広島支部会員ら20人
1964/4/11
ニクソン元米副大統領が広島市を訪問。「私にとってヒロシマは単に都市の名前にしか過ぎなかったが、今度市民に接して生きた思い出となる。ヒロシマは一つの時代を終わらせ、平和への約束を持たせている町だ」
1964/4/14
米政府原子力委員会が「ネバダ核実験場で低威力の地下核実験を行った」と発表。この年4回目
1964/4/14
ホリオーク・ニュージーランド首相が「東南アジア条約(SEATO)機構の秘密会議で仏が計画している南太平洋での核実験を非難した。抗議書を仏外相に手渡す予定」と言明
1964/4/15
世界平和巡礼団に参加する長崎の被爆者代表6人が、広島へ出発(「長崎年表」)
1964/4/15
ウィーン少年合唱団が広島原爆病院を慰問。入院患者に美しい歌声を披露
1964/4/15
自民党政調会が「原爆被爆者対策に関する小委員会」の設置を決める
1964/4/16
ジュネーブ軍縮会議でフィッシャー米代表がミサイル、爆撃機など核運搬手段凍結の具体案を提示。5,000キロの射程を持つ地対地ミサイル、ポラリスを含む100キロ以上の射程を持つ海上基地用地対地ミサイルなどの生産停止
1964/4/16
第2回広島・長崎世界平和巡礼団が広島出発。広島市平和記念館で結団壮行式。団員40人が2カ月をかけ欧米、ソ連など8カ国を回る。松本卓夫団長(元広島女学院長)が「原爆という共通の苦悩を背負った私たちは協力してヒロシマ、ナガサキの声を世界に訴えます」
1964/4/16
ドゴール仏大統領がテレビ演説で「仏が仏であるためにも核武装しなければならない。米は守ってくれない」と言明
1964/4/19
日本原水協が第10回原水禁世界大会実施計画を発表。「6月から7月にかけて全国各地、各職場で100万人集会を開く。7月31日から10日間、中央集会を東京、大阪、京都、広島、長崎と移動しながら開く。安井郁理事長は「この大会を草の根から再出発の大会とし、原水禁運動の再建をはかる」
1964/4/20
ホワイトハウスが「米政府原子力委員会は核実験をすべて発表してきたわけではなく、部分核停条約が発効した1963年の10月10日以降、発表されているよりもさらに大規模な地下核実験を行っており、新型核兵器の設計、効果などについても重要な情報を得ている」と明言
1964/4/20
ジョンソン米大統領とフルシチョフ・ソ連首相が核分裂物質の生産削減を同時発表。米は4年間でプルトニウム生産の20%、濃縮ウラン生産の40%を削減。ソ連は原子炉2基の建設を中止し、ウラン鉱の生産を削減
1964/4/20
原水禁広島協議会が日本原水協とは別の8・6集会開催を発表。原水爆被災3県連絡会議と主催で8月5日から7日まで。参加者は2万人規模で、「秩序ある静かな大会」をめざし原爆慰霊碑前は使わない方針。核禁会議も含め3つの平和集会開催へ
1964/4/20
広島・長崎世界平和巡礼団に参加する庄野直美広島女学院大教授への入国査証を米大使館が保留
1964/4/21
第2回広島・長崎世界平和巡礼団が羽田から最初の訪問地ハワイのホノルルに向け出発
1964/4/21
明仁皇太子が、3色のハスを池に浮かべ原爆犠牲者の霊を慰めたいという広島市の女性の願いを聞き、研究用に育てた珍しい黄色いハス2鉢を広島市に贈る
1964/4/21
UPI通信が仏政府筋の話として「仏は米英ソに追随して軍事用核分裂物資の生産を削減するようなことはしない」と伝える
1964/4/21
ヒューム英首相が下院で「米ソの核分裂物質の生産削減措置は信頼感を強めるのに大いに役立つ。英は核分裂物質の供給を必要最小限に調整しており、軍事用プルトニウムの生産は打ち切りの方向へ進んでいる」
1964/4/22
広島市議会は国会の「原爆被爆者援護強化に関する決議」を足掛かりに被爆者援護予算獲得を促進するため被爆者問題対策特別委員会の設置を決定
1964/4/24
原水爆被災3県連絡会議主催の原水禁全国代表者会議開く。広島市の平和記念館に100人。「日本原水協の運動は一部政党に牛耳られた政治運動。被災3県の声を中心にした運動こそ正しい運動であり、全国規模の3県支持実行委員会を組織して原水禁運動を進める」とアピール
1964/4/25
政府が第1回戦没叙勲者1万177人を発表。原爆被災の従軍看護婦やタイピストら13人の女性も
1964/4/25
広島在住の学者、宗教家、作家らでつくる広島平和運動懇談会が発足。発起人は相原和光(広島YMCA総主事)、田辺耕一郎(広島「憩いの家」運営委員)、桑原英昭(広島宗教者平和協議会長)、小谷鶴次(広島大教授)の4氏。目的は「広島での平和運動について話し合いを深め、正常な発展のため積極的な役割を果たす」
1964/4/28
日本被団協が参院議員会館に全国の代表80人を集め「原爆被害者援護法制定国会請願大会」。(1)生存被爆者、遺族の実態調査(2)健康と生活保持のための特別援護(3)死没者への弔慰金と遺族の生活保障(4)医療手当の支給条件の緩和と増額-を柱とする援護法制定を決議。船田中衆院議長や厚生、大蔵省などに請願
1964/4/29
日本原水協が東京の全国代表者会議で、第10回原水禁世界大会の基調を確認。(1)米の核戦争政策が世界平和に最大の脅威をつくりだしている(2)戦争勢力とその政策に対する戦いを強める
1964/4/29
米大使館が広島・長崎世界平和巡礼団の庄野直美広島女学院大教授への入国査証交付
1964/4/--
山口勇子、大野允子、御手洗旬江、宮本泰子さんの共同執筆による原爆童話「つるのとぶ日」が厚生大臣賞受賞
1964/4/--
「広島、長崎に原爆を投下した爆撃機隊のクロード・イーザリー元米空軍少佐は実はどちらの爆撃にも参加していなかった」。ウイリアム・ブラッドフォード・ヒューイ氏が著書「ヒロシマ・パイロット」で明かす。「原爆投下時、彼は天候観測機に乗って広島市から320キロも離れた所を飛んでいたし、長崎の近くを飛んだこともない。隊長はポール・チベッツ中佐」

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