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ヒストリー

ヒロシマの記録1964 7月


1964/7/1
ライシャワー駐日米大使が記者会見で「原子力潜水艦の寄港問題は過ぎ去った問題ではなく、日本政府との間でなお技術的問題を研究中」と語る
1964/7/4
広島市婦人会連合会(村上安恵会長)が原水禁運動3派の代表から意見を聞く会。核禁広島県民会議の門秀一議長、広島県原水協(共産党系)の佐久間澄理事長、原水禁広島協議会(社会党系)の伊藤満事務局長が出席
1964/7/4
広島・長崎世界平和巡礼団40人が75日ぶりに帰国。ナホトカから横浜へ。米、ソ、ヨーロッパなど8カ国150都市訪問。松本卓夫団長「広島・長崎の名はよく知られているが、後遺症などの実態はほとんどわかっていない。被爆者の生の声は大きな感動を与えた」
1964/7/5
広島・長崎世界平和巡礼団が広島市に帰る。原爆慰霊碑に帰国報告。庄野直美広島女学院大教授が記者会見。「ワールド・フレンドシップ・センターに連絡機関をつくり、人道的立場から平和運動を進めたい」
1964/7/6
広島・長崎世界平和巡礼団が広島市の平和記念館で市民への帰国報告集会。松本卓夫団長が「巡礼団は世界平和のためのタネまきだった。今後はその成長と収穫を繰り広げなければならないと痛切に感じている」
1964/7/7
原水禁世界大会に海外代表も分裂参加。中国が日本原水協に「劉中国平和委員会副主席を団長とする代表団21人を送る」と通知。一方、8日にはソ連から原水爆被災3県連絡会議に「ジューコフ・ソ連平和委員会副会長を団長とする15人の代表を送る」と電報が届く。ガーナは「両方から招待状を受け取ったが、どちらにも参加しない。運動の統一をめざし努力して欲しい」と要望書
1964/7/9
東京五輪の記録映画撮影のため、市川崑監督が広島市を訪問。聖火リレーのトップシーンに原爆ドームを構想
1964/7/11
日本原水協が第10回原水禁世界大会の一般報告骨子を決める。部分核停条約の評価については「国内でもいろいろな受け取り方がある」と事実上棚上げ
1964/7/11
社会党が「党員は日本原水協の世界大会には参加せず、原水爆被災3県連絡会議に参加せよ」と異例の中執委指令
1964/7/12
沖縄に住む被爆者78人が「沖縄原子爆弾被害者連盟」(金城秀一理事長)を結成。那覇市の沖縄会館に50人が集まり結成総会。(1)核兵器反対、軍備反対(2)原爆医療法の沖縄適用、生活保護の獲得(3)本土専門医の沖縄派遣、原爆病院への入院による診断と治療の実施-を目標に琉球政府、日米政府に働きかけるなど、本土の被爆者団体と連帯した運動の推進を決める
1964/7/13
東京で洋裁師をしている原爆孤児の三谷栄治さんが精神縁組で姉弟の関係を結んだ米婦人ナンシー・ウルフさんと広島市で初対面
1964/7/14
原水禁広島市協議会が原水爆被災3県連絡会議主催の大会の支持を決定
1964/7/15
原水爆被災3県連絡会議が「原水禁広島・長崎大会」の大会基調を決める。部分核停条約については正当に評価し、棚上げを決めた日本原水協と一線画す
1964/7/15
社会党訪ソ使節団(成田知巳団長)とソ連共産党中央委員会が共同声明。「社会党は部分核停条約を支持したが、この条約は限定的で地下核実験を含んでいないので、その禁止と、全面的核兵器禁止のための闘争を続けることを義務とみなしている。これに関連して欧州のある国(仏)が予定している太平洋での核実験を断固非難する」
1964/7/15
広島市の平和記念公園で「平和の鐘」(平和の鐘)鐘楼の建設起工式
1964/7/16
民社党原爆実情調査団(内海清団長)が広島市入り
1964/7/17
核禁広島県民会議がニューヨークにある「米核政策健全化委員会」(ノーマン・カズンズ会長)の依頼を受け、千羽づる5,000羽贈る
1964/7/18
広島平和運動懇談会が日本原水協、原水爆被災3県連絡会議、核禁会議の3派への訴えを発表。「部分核停条約は地下実験を残し不十分ではあるが、全面禁止への足がかりとして正当に評価する。原水禁運動の政党系列化に反対し、3派とも運動の分裂を固定化しないよう国民感情に結びついた正しい姿勢で今後の運動を進めて欲しい」
1964/7/18
ソ連平和委員会が日本原水協に「第10回原水禁世界大会に代表を派遣する」と通知。同平和委員会は原水爆被災3県連絡会議主催の原水禁大会にも参加
1964/7/20
15年間原爆孤児の世話を続けている「聖ミカエルの家」(広島県佐伯郡廿日市町)の仏人神父アントニオ・ドシャンジー氏が日本に帰化
1964/7/22
長崎県労評と長崎地区労とが長崎原水協を脱退。7月23日、長崎市原水協結成大会を開く。同市原水協は長崎市婦人会が中心になり結成し、会長に小林ヒロ市婦人会長を選出。「どこの国のどんな核武装、核実験にも反対する」(「長崎年表」)
1964/7/23
高橋等法相が第10回原水禁世界大会に出席を希望している中国代表の趙安博、王照華両氏の入国を拒否する方針を示す。日本原水協が抗議声明
1964/7/23
ポンピドー仏首相がムルロア環礁の水爆実験視察へ出発
1964/7/24
永野厳雄広島県知事が8月6日午前8時15分に全県民が黙とうするよう呼びかけ
1964/7/24
日本原水協主催の「第10回原水禁世界大会」と原水爆被災3県連絡会議主催の「原水禁広島、長崎大会」の2つの大会に出席するソ連代表団の第1陣6人が来日。ジューコフ団長「原水禁運動発展のためには統一が不可欠。ソ連代表団はこうした考えに基づいて行動する」
1964/7/26
第10回原水禁世界大会に出席する中国代表の入国拒否問題で、北京の新聞「大公報」が「中日友好を破壊する日本当局の行為に抗議する」と論評
1964/7/27
第2回世界宗教者平和会議が東京で始まる。27日まで。中国、ソ連、スウェーデン、インド、インドネシアなど16カ国の仏教、キリスト教、イスラム教などの各宗派代表400人が参加。基調報告で平和運動の中に広まっている分裂主義的傾向を強く批判
1964/7/27
高山義三京都市長が記者会見で、日本原水協が8月3日から6日まで開く第10回原水禁世界大会に協力できないと語る。「平和を望み、原水爆禁止を叫ぶ気持ちはだれも同じだが、政治的に騒がれるのは市民にとって迷惑だ」。蜷川虎三京都府知事は「原水爆禁止運動はどの政党にこだわらず全面的に協力する」
1964/7/29
英米ソなど14カ国を回って世界平和を訴えているインドの青年E・P・メノンさんとサティシュ・クマールさんら国際平和行進の一行6人が故佐々木禎子さんの写真を胸に広島県入り
1964/7/30
日本原水協主催の第10回原水禁世界大会国際会議始まる。東京のダイヤモンドホテルに58カ国7国際団体から海外代表205人が参加。「社会党、総評系の分裂大会にも出席するソ連などの代表から役員を出す必要はない」などソ連や世界平和評議会代表を攻撃する発言が相次ぐ
1964/7/30
日本原水協が第10回原水禁世界大会国際会議で一般報告。「第9回原水禁世界大会をボイコットした人たちは、その後日本原水協の存在を否認しながら、ついには自らが否定した日本原水協の名を詐称して海外へ案内状を出している。第10回大会はアメリカ帝国主義を先頭とする侵略と戦争勢力に対する戦いの大会である」(「ヒロシマの記録」)
1964/7/30
原水禁広島協議会(社会党、総評系)が広島県、市民への訴え発表。「原水禁広島、長崎大会の準備は進んでいるが、原水禁広島協議会から同じ名前の団体に分裂していった人たちによって混乱し迷惑をかけている。本物と偽物をよく見分けて支持、協力してもらいたい」
1964/7/30
広島原爆病院が1月から6月までの診療概況を発表。受診者1万6,000人。60歳以上48.8%、40~60歳33%、40歳未満18.1%。成人病疾患目立つ。死亡28人で、肺がんが4人、胃、肝臓がんが3人など
1964/7/30
ニューデリーのステーツマン紙が「インドは政治的、軍事的決定が下れば、1年半以内にも原爆を生産することができる」と伝える
1964/7/31
第10回原水禁世界大会国際会議2日目。役員を中国系代表が独占し、ソ連系がボイコット
1964/7/31
第10回原水禁世界大会東京大会開く。東京都体育館に全国から2万人が参加。畑中政春日本原水協代表理事が「世界大会を支持すると言いながら、分裂集会にも出ようという一部外国代表の態度は遺憾」とソ連を非難
1964/7/--
米政府原子力委員会は濃縮ウランなど研究用核燃料の外国への供給方法について、賃貸方式から売り渡し方式への変更を決定。大平正芳外相に伝える
1964/7/--
日本原水協と原水爆被災3県連絡会議が原水禁大会への文化人獲得にしのぎ。評論家の中野好夫氏のように「政党系列化は迷惑」という声が強い

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