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ヒストリー

ヒロシマの記録1963 6月


1963/6/1
3、4日に広島市で開かれる全国地方原水協代表者会議に向け日高六郎東大教授ら13人の学者、文化人が統一を要望するメッセージ発表。高桑純夫、阿部知二、中島健蔵、堀豊彦、丸岡秀子氏ら
1963/6/3
「長崎-広島平和行脚」が広島市の平和記念公園に到着。1,500人が歓迎集会。「いまこそ小異を捨て、日本の原水禁運動の伝統を引き継がなければならない」の大会宣言を採択
1963/6/3
広島市の平和記念館で全国地方原水協代表者会議。4日も。「世界大会は必ず開く。6月10日の日本原水協全国常任理事会に再統一の要請文を送る」など確認
1963/6/3
ローマ法王ヨハネ二十三世が死去。81歳。広島に深い関心を寄せ続け1960年、広島司教区が新設されたとき野口由松司教をローマに呼び、法王自ら異例の叙階式(任命式=60年5月8日)を開いた
1963/6/5
ラジオ中国が8月7日まで10回にわたりラジオ・ドキュメント「八月六日」を放送。第1回「おさえられた声」。語り手、宇野重吉氏
1963/6/5
政府が衆院外務委員会で米原子力潜水艦の日本寄港を認める基本方針を示す。(1)ポラリスなど核兵器の持ち込みは絶対ない(2)スレッシャー沈没事件は安全性とは無関係-など「中間報告」を説明
1963/6/5
蜂谷道彦広島逓信病院長の「ヒロシマ日記」を読み、被爆想像図を描いた南アフリカのE・ミゼンチさんから旧護国神社付近を描いた絵が蜂谷院長のもとに届く。県立図書館へ寄贈
1963/6/6
ネバダで2回の地下核実験。米政府原子力委員会が発表
1963/6/8
大阪府議会が米原潜寄港とF105戦闘機の配備に反対する決議案を賛成多数で可決
1963/6/8
原水禁運動統一問題で核兵器禁止・平和建設国民会議(松下正寿議長)と原水禁連絡会議の第2回会合が東京・日本青年館で開く。核禁会議から和田春生副議長、連絡会議から井岡大治社会党国民運動委員長らが出席。原潜寄港をめぐり意見が対立したが「あらゆる国の核実験に反対するという基本原則には保留を認めない」では一致
1963/6/10
日本原水協が東京・学士会館で全国常任理事会。社会党、総評系理事が「社共の統一交渉が煮詰まっていない」として会議を懇談会に切り替えることを要求、正式会議は8時間のうち10分で、6月21日開催を決め散会
1963/6/10
ケネディ米大統領がワシントンのアメリカン大学卒業式で「米英ソ3国首脳は包括的核実験停止協定の早期達成のため7月中にモスクワで高級会談を開くことに合意した」と演説。また、他の国が実施しない限り米は大気圏内核実験をしないと明言
1963/6/12
浜井広島市長に西ドイツ2都市の平和団体から、8月に広島展を催したり広島週間を設け原水爆禁止をアピールしたいと便り。ドルトムント市国際反戦同盟とブラウンシュバイク市社会問題研究会
1963/6/12
原子力委員会が国産動力炉は天然ウランまたは微濃縮ウランを燃料とする重水減速型と決定。出力100万キロワット。建設場所は茨城県大洗町、1970年ごろから実用炉建設へ
1963/6/13
人権を守る婦人協議会が婦人国会議員、女優、作家、歌手ら151人の署名した「原子力潜水艦の日本寄港に反対する婦人へのアピール」を発表。市川房枝、山高しげり、淡谷のり子、杉村春子、平塚らいてうさんら
1963/6/14
米政府原子力委員会がネバダで地下核実験を実施と発表
1963/6/14
プルトニウムの危険性を指摘し、核燃料の再処理問題の困難性を指摘する記事が中国新聞に掲載。「どこへ行く…プルトニウム」
1963/6/14
ウィルソン英労働党党首がフルシチョフ・ソ連首相と会談。会談後、ウィルソン党首は「最小限の査察回数でも全面的核実験禁止条約で合意の見込みはない。もっとも希望がもてるのは地上、宇宙、水中のあらゆる核実験禁止条約であり、地下核実験はその後に残すべき」
1963/6/14
米原潜の寄港反対を発表した原子科学者1,600人の連絡事務局が、安全性を強調した外務省の中間報告に反論。「放射性廃棄物の処理方法が日本の基準の1,000倍」「原子炉の制御方法に不安があり、衝突時の安全性に疑問」-など
1963/6/16
社会党が中央委員会で原水禁世界大会の再建案を発表。大会名を「原水爆禁止日本核武装阻止第9回世界大会」とし、8月4、5、6の3日間、広島または東京で開き、「日本大会」と「国際会議」に分離する。「すべての国の核実験に反対」は貫く
1963/6/18
来日中の中国人民対外文化協会常務理事の羅俊氏ら5人が広島を訪れ、「原水禁運動が大同団結し、統一した形で運動できるよう望んでいる」と語る
1963/6/19
参院外務委員会が原潜寄港問題で参考人を招く。野中到(東大原子核研究所長)、西脇安(東工大教授)、湯川秀樹(京大基礎物理学研究所長)、西堀栄三郎(日本原子力研究所理事)の各氏。湯川氏は原潜の安全性に疑問を投げかけ不賛成と意見表明。西脇氏は原潜の原子炉が爆発しても爆発力は広島の五十万~七十万分の一とし安全性は高いと述べる
1963/6/19
原水禁運動の統一問題を協議する社会党、総評、共産党の3者会談が東京・平河町で開かれ統一・再建で意見が一致。「2・21声明で取り交わした日本原水協の活動を直ちに再開する。このため各種意見は議事録にとどめ発表する。議決は満場一致を原則とするが、少数意見の保留、批判の権利は残す。大会準備委員会と事務局をつくる」。社会党は井岡大治国民運動委員長、伊藤茂同事務局長、総評から安恒良一政治局長、高橋鉄志国民運動部長、共産党から内野竹千代統一戦線部長、金子満広同副部長が出席
1963/6/20
ジュネーブ軍縮交渉で、米ソ「直通線(ホットライン)協定」に調印。当面、クレムリンとペンタゴンを結び将来はホワイトハウスに延長の可能性。有線、無線のテレタイプ回線。偶発戦争防止が目的
1963/6/21
日本社会主義青年同盟広島地区本部が浜井広島市長に原潜寄港問題で公開質問状
1963/6/21
日本原水協が常任理事会。第9回世界大会を1万人規模で開く(広島市を希望)、準備のため個人資格の常任理事27人を新しく選ぶなどを決定。社会主義国が核実験、新しい核政策をとった場合は2・21声明に従って行動を起こすが、反対のものは態度を留保できる-などを確認
1963/6/23
広島「折鶴の会」(世話人、河本一郎さん)が広島市内で結成5周年の集い。海外50の平和団体に平和の願いを託したメッセージ送る。世界平和アピール7人委員会などから会の成長を祝うメッセージや祝電
1963/6/24
ケネディ米大統領がアデナウアー西ドイツ首相と会談後、西ドイツ外務省で会見。「核実験停止協定を本年中に締結することが必要。協定が結ばれなければ、今後3年間に世界中に核兵器を持つ国が増え破滅を来す」
1963/6/24
米がネバダで地下核実験を実施。25日、米政府原子力委員会が発表
1963/6/25
日本学術会議が運営審議会。原子力特別委員会(委員長、坂田昌一名大教授)を中心に独自の原潜の安全性審査に取り組むことを決定
1963/6/25
釜山市陸軍病院勤務のジョオング・ブウ・ユンさんから浜井広島市長に「兄が原爆症らしい。広島の専門病院で治療を受けたい」と手紙。市原対課は「広島市内在住の朝鮮人のうち約2,000人が被爆者手帳を持っている。広島市に来れば当然治療を受けられる」と返事
1963/6/26
日本青年団協議会(古屋脩則会長)と全国地域婦人団体連絡協議会(山高しげり会長)が、社会党、総評と共産党との「統一協定」に抗議声明。8月の世界大会不参加の意向示す
1963/6/26
原水禁広島協議会が広島市の平和会館で常任理事会を開き、第9回原水禁世界大会の広島開催を引き受ける。希望条件「大会を絶対混乱させない」「被爆者救援を積極的に取り上げる」「原水禁広島協議会の主体性を十分尊重する」。世界大会は5日開会、6日は広島市主催の平和記念式典に参加した後、分散会を開き、7日は県立体育館で1万人の宣言総会開催。世界大会の広島開催は第1回(1955年)、第5回(1959年)に次いで3回目
1963/6/29
核兵器禁止・平和建設国民会議(松下正寿議長)が東京で全国代表者会議。8月5、6日に広島市の見真講堂で核禁広島大会の開催を決める。全国の代表1,000人を集め、6日の大会後には「平和のともしび行進」も。9月に米、ソ、バチカンなどに松下議長を含む約30人の「核禁、宗教者平和使節団」派遣も決定
1963/6/30
ケネディ米大統領、マクミラン英首相が共同声明。「ソ連と核停条約を結ぶため最善を尽くす」
1963/6/30
日本被団協が広島市の平和会館で全国代表理事会。「原水禁世界大会に積極参加し大会基調に被爆者援護を具体的に盛り込む」「全国の地方議会で被爆者完全援護法獲得の議決を呼びかける」などを決定
1963/6/30
米政府原子力委員会が「ソ連が最近数週間に小規模の核実験をした証拠がある」と発表
1963/6/--
アール・レイノルズ博士夫妻が第2回平和巡礼を計画。広島、長崎の被爆者30~40人にレイノルズ一家が加わり、米国内を巡回。ピース・トレインで米大陸横断の原爆資料展、映画会、懇談会も
1963/6/--
広島県文化会議(堀博自議長)が原爆詩人峠三吉氏の没後10周年を記念し平和記念公園内に記念碑建立を計画。碑には代表詩「ちちをかえせははをかえせ」を彫り込む。8月6日に除幕式
1963/6/--
米原潜寄港問題で新日本文学会(中島健蔵常任幹事長)が反対声明
1963/6/--
靖国神社が「国民義勇隊の組織に関する件」(1945年3月20日閣議決定)で動員され戦災死した人々も合祭決める。原爆犠牲者のうち旧制中学、高等女学校の低学年生徒、町村・職域の国民義勇隊員ら約6,000~7,000柱が対象に。国家総動員法で徴用を受けた学徒、女子挺身隊、徴用工として死亡した旧制中学高学年生徒は、すでに合祭
1963/6/--
広島大原爆放射能医学研究所の志水清教授が広島地区の工場従業員8,000人の心身調査を実施。うち被爆者が1,200人で、非被爆者に比べ精神的な違いはほとんどなかったが、肉体的には血圧が高い、風邪を引きやすい、めまいがするなどの不調。7月12日、鳥取市で開く中国公衆衛生学会で発表へ
1963/6/--
広島県安芸郡坂町議会が原潜寄港反対決議案を可決。広島県内では竹原市に次ぎ2番目
1963/6/--
平和と学問を守る大学人の会(代表理事、佐久間澄広島大教授、150人)が、米原潜寄港反対の署名運動。広島大は伊藤満、高木貫一、建林正喜、村上忠敬の各教授、広島女子短大は山手茂助教授、広島女学院大は庄野直美助教授らが署名集めへ

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