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ヒストリー

ヒロシマの記録1963 7月


1963/7/1
広島市上流川町の縮景園が原爆で破壊されたままとなっていた二段の滝、白竜泉を復元
1963/7/2
フルシチョフ・ソ連首相が東ドイツで「ソ連は地下を除く大気圏の内外、水中での核実験停止協定に調印する用意がある」と演説
1963/7/2
ワシントン・デーリー・ニューズ紙が「米は原子力潜水艦の日本寄港計画を延期すべき」と社説。「日本人はあらゆる種類の核兵器に敏感に反応する国民だ。池田親米内閣は原潜が危険でないと国民を説得するのに大わらわだが、これは容易なことではない。日本は乗員の休息に好適の地だが、日本でなければならない理由はない」
1963/7/3
米政府が部分的核実験停止条約について「米はあらゆる核実験停止を希望するが、部分核停条約にも進んで調印する用意がある」と表明
1963/7/4
原水禁広島市協議会(会長、浜井広島市長)が第9回原水禁世界大会に協力の方針決定。このため40万円を目標に平和バッジで募金運動。協力に際しての要望「被爆地広島で昨年のような混乱を繰り返さない確約を」
1963/7/5
共産党機関紙アカハタが原水禁運動で論評。(1)「いかなる国の核実験にも反対」という素朴な感情を運動方針の原則にするのは、運動を中立主義の方向に引き戻し、平和の敵を明確にしないばかりでなく逆に利用されるだけだ(2)この問題に固執するのは米日反動の謀略に呼応するもの
1963/7/5
広島市江波町の広藤忠男さんが、姉妹校の広島市千田小学校を訪ねた米ホノルル市アヌエヌエ小学校のメイ・スワンソン校長に、父の遺品である被爆した古銭のかたまりを贈る。大部分は1954年に原爆資料館に寄付
1963/7/8
広島平和科学研究所の運営委員、久保良敏広島大教授、相原和光広島YMCA総主事、平和運動家アール・レイノルズ氏の3人が広島YMCAで同研究所の活動方針決める▽海外の平和問題の論文を和訳出版▽米やカナダの平和研究所と共同作業▽被爆者医療問題についても積極的にアプローチ-など。同研究所は1962年夏結成
1963/7/8
全学連マルクス主義学生同盟(マル学同)が、第9回原水禁世界大会を「社共のデッチ上げ大会」として「大会粉砕」を決める
1963/7/8
広島市が8月6日の平和記念式典の最後に「平和の歌」を参列者全員で大合唱することを決める
1963/7/10
故佐々木禎子さんの遺品の折りづる2羽と、禎子さんが自ら白血球、赤血球数を記入した表を、広島市中広中教諭の豊田清史さんが原爆資料館に寄贈
1963/7/11
広島流川教会の谷本清牧師にオレゴン州ポートランドのヒデオ・ハシモトさんから「8月6日に広島の悲劇をしのぶヒロシマ・メモリアル・マーチを計画している。折りづるなどを送ってほしい」の手紙
1963/7/13
原水禁広島協議会が役員選出の遅れている日本原水協に「早く機能回復を」との要望書提出決める
1963/7/15
NHKラジオ番組「広島ダイヤル」で8月5日まで18回にわたり、原爆特集「広島は生きている」を放送。被爆は人生をどう変えたか、18人の被爆者の声
1963/7/15
米英ソ3国核実験停止高級会談がモスクワ・クレムリンで始まる。ソ連代表はフルシチョフ首相、米代表ハリマン国務次官、英代表ヘイルシャム科学相
1963/7/16
原水禁広島協議会が総評、平和委員会など中央団体に「役員の選出を急ぎ一日も早く日本原水協の機能復活を」と再度要請。27人の常任理事のうち5ポストをめぐる社共の主導権争いを懸念
1963/7/16
広島「折鶴の会」の河本一郎さんと広島原爆病院に入院している4人の女性患者が、米英ソ3国高級核停会談の首脳と、初の女性宇宙飛行士テレシコワさんに会議の成功を祈るメッセージを送る。原水禁広島協議会も3国の会談代表に「早く協定を結ぶよう」要請電報
1963/7/17
フジテレビ制作、広島テレビ協力のテレビドラマ「嫁ぐ日まで・広場の記憶」の広島ロケ始まる。岡田晋氏作。被爆者の結婚問題を描く。8月5日全国放送へ
1963/7/17
中国音楽配給会社と東洋音楽放送が広島原爆病院にバックグラウンド・ミュージック設備を寄贈
1963/7/17
モスクワ3国核停会議の米英ソが「大気圏内外および水中での核兵器実験停止協定のいくつかの条文作成で進展をみた」と共同コミュニケ発表
1963/7/18
広島県地域婦人団体連絡協議会(津恵君江会長)が代議員会を開き、25対20の小差で第9回原水禁世界大会に参加決める。地婦連翼下で参加決定は初
1963/7/18
外務省が省内に軍縮委員会(委員長、小川平四郎国際資料部長)を設置。将来は軍縮課に
1963/7/19
故佐々木禎子さんをモデルにした演劇がオランダ、ベルギーで公演。原作はオーストリアの作家カール・ブルックナー氏。1962年「サダコは生きる」を出版、ベストセラーになり出版文化賞を受賞。演劇はオランダ・アムステルダム郊外に住むレックス・デルノーイ氏が演出、制作。デ氏から広島市に手紙
1963/7/19
日本学術会議原子力特別委員会(委員長、坂田昌一名大教授)が「原子力潜水艦の安全性に関する検討」と題する報告書を朝永振一郎学術会議会長に提出。6月5日に外務省が発表した「中間報告」について「米側公表資料に依存しながらも、それを選択作成したために公表資料とは異った結論を主張し、科学的には公正でない」と批判
1963/7/19
日本原水協の選出済み常任理事21人が集まって懇談会。第9回原水禁世界大会に中国から17人の代表団が参加するほか、ソ連からも13人が出席と連絡
1963/7/19
中国共産党の機関紙人民日報が「核兵器の全面的禁止をせず、部分的核実験停止のみで協定を結ぶのは米の核戦争陰謀のペテンに引っかかること」と社説
1963/7/20
フルシチョフ・ソ連首相が、ソ連・ハンガリー友好集会で演説。「ソ連は米、英両国が特にわれわれと違う立場をとらなければ、両国と部分核停条約を締結できる」「革命のあるところ必ず戦争があると主張する狂信者は、熱核戦争突発の際、生き残ったものが死者をうらやむことを知っているのだろうか」
1963/7/22
内野竹千代日本共産党統一戦線部長が広島で「社会党が『いかなる問題』にこだわるなら絶対に妥協せず戦う」と表明
1963/7/22
建林正喜、今堀誠二両広島大教授、相原和光広島YMCA総主事、田上すみ子段原婦人会長、福岡義登県労事務局長ら16人が「広島県・市民の盛り上がりで原水禁運動の分裂・混乱を防ぎ、第9回原水禁世界大会を成功させよう」とのアピールを発表。浜井広島市長にも市民に積極的に働きかけてほしいと申し入れ
1963/7/22
社共両党が譲歩し、遅れていた日本原水協の常任理事5人を選出。25人の理事で第9回原水禁世界大会の広島市開催を正式決定
1963/7/22
広島市原爆被爆者協議会(任都栗司会長)が第3回核禁広島大会に参加決める
1963/7/22
社会党機関紙の社会新報が「原水禁世界大会の成功のために」と題する論文。「7月5日付アカハタ論文は政党の不当な優越感と独断に満ち、これでは原水禁運動の自主性も独自性も否認される」と共産党の方針を批判
1963/7/23
中国新聞が「しいての統一は望むな」と題し社説。「広島の平和が乱されるおそれがあるとするならば、日本原水協が分裂することも、やむをえないのではないか。少なくとも、しいて無理な統一は望まなくてよい」
1963/7/23
広島原爆病院の入院患者の40.5%が60歳以上に。被爆者老人ホームの必要性高まる
1963/7/23
日本原水協の世界大会基調報告で社共が対立。共産党は「いかなる国の核実験にも反対」を「いかなる核兵器にも反対」とするよう主張
1963/7/24
社会党が、原水爆禁止世界大会は「いかなる国の核実験にも反対」の原則を守ると確認。代表団団長に成田知巳書記長、副団長に井岡大治国民運動委員長
1963/7/25
モスクワで米英ソ3国が、地下を除く大気圏内、宇宙空間および水中における核兵器実験を禁止する条約「部分的核実験停止条約」に仮調印。1958年7月、ジュネーブで第1回核実験探知専門家会議が開かれてから5年ぶり。条約前文「厳重な国際管理下に全般的完全軍縮協定のできるだけ早急な締結をその原則として宣言し、すべての核兵器爆発実験の永久的停止を実現することを望み、この目的のために交渉を継続することを決意し、放射性物質による人間環境の汚染を終わらせることを願って合意した」▽北京放送が「部分的核停は米の核軍備拡張の妨げにならない」と批判。仏は「今後も水爆とミサイルを含む核兵器開発を推進する」と見解を表明
1963/7/26
広島市が米英ソ3国の部分核停条約仮調印で3国首脳に感謝電報の打電決める
1963/7/26
ケネディ米大統領が全米向けテレビ、ラジオ放送で「部分核停条約の成立は人類の勝利」と演説。「核停条約は核保有国と核兵器の拡散を防ぐ戦いの突破口」と強調し、目的の1つが核兵器拡散防止にあることを明言
1963/7/26
郭沫若中国人民平和擁護委員会主席が北京で「核兵器を独占して世界の人民の運命を支配しようとする少数の国の企画は、必ず粉砕されよう」と演説
1963/7/26
「水爆の父」米のエドワード・テラー博士が「部分核停条約は米にとって最善のものかどうか疑わしい。大気圏内実験禁止はミサイル迎撃ミサイルを発展させようという米の努力を妨げるかもしれない」と表明
1963/7/26
部分核停条約加盟について米が日本政府の意向を非公式に打診
1963/7/26
中国新聞が米英ソ3国核停条約仮調印で「ヒロシマは待っていた」とする特集記事掲載
1963/7/27
尾道市が尾道原水協の事務取り扱いを中止。結成以来、市長が会長を務めてきたが2年前に青山俊三元市長が会長就任を拒否、松谷勝現市長も拒否し事務もとらないことを決定。松谷市長「原水協の事務は便宜上扱ってきたが、市本来の業務でないのではずした」
1963/7/27
インドが米英ソ3国部分核停条約に署名する、と声明
1963/7/28
中国新聞がこの年夏放送の原爆特集番組をまとめる。<NHK総合テレビ>若い被爆者の意識を探るフィルム構成「あすへの歩み千羽鶴のはばたくまで」<NHK教育テレビ>フィルム構成と座談会「ヒロシマのこころ」。作家の菊村到氏がルポ、浜井広島市長、中野清一広島大教授ら<ラジオ中国テレビ>フィルム構成ドキュメンタリー「ひき裂かれたヒロシマ」。被爆者の生活と平和運動の断層など追求<広島テレビ>新ニッポン拝見「広島原爆病院の看護婦さん」「嫁ぐ日まで広場の記憶」<NHKラジオ>4回連続で広島の今を考える「あの日から18年」<ラジオ中国>座談会「平和への道」外交評論家の加瀬俊一、軍事評論家の久住忠男氏ら。原爆を投下した米機の元パイロットの心理を描いた放送劇「原罪」
1963/7/28
原水禁中国ブロック協議会が、中央の話し合いがつかないことから独自で大会準備にはいる
1963/7/29
中国新聞が「消えゆく傷跡」として夕刊で連載企画。原爆の爆風で台石とレンゲ台の間に石が食い込んだ「五輪の塔」などを紹介
1963/7/29
原水禁世界大会への代議員出席を目的に、原水禁広島市協議会に大量の新規加入申し込み。125団体の新規加入を認める
1963/7/29
ドゴール仏大統領が部分核停条約への参加を拒否。「もしも(米ソ)両国が軍縮に踏み切って核兵器を破壊し、禁止するなら、フランスも核兵器の製造を完全にやめるだろう。しかし、そのときはまだ来ていない」
1963/7/30
呉市議会が米原潜日本寄港反対決議を否決
1963/7/31
日本原水協専門委員会の「原水爆被害白書かくされた真実」について。編集責任者の石井金一郎広島女子短大助教授が、中国新聞紙上で編集当時の苦労を語る。共同編集責任者は吉田嘉清日本原水協事務局次長ら
1963/7/31
原水禁世界大会の社共対立続き、話し合いの舞台が広島市へ。主な対立点(1)「いかなる問題」<社会>原水禁運動の基本原則として基調報告に文章化<共産>論議はたな上げ、基調報告にいれる場合も口頭で(2)「部分核停条約の評価」<社会>高く評価、基調報告にはっきり表明<共産>核兵器の拡散防止を口実に米が核優位を確立しようとの意図(3)「国際会議の性格」<社会>外国代表はオブザーバーに<共産>これまで通り正式メンバーに
1963/7/31
中国が部分核停条約で声明。「核停条約は悪質なごまかし。条約はかえって大きな害をもたらすものであり、中国政府がこのインチキ条約に参加することは思いもよらない」「これによってソ連国民、中国を含む社会主義国民の利益は西側に売り渡されてしまった」
1963/7/31
広島公演の青山学院大合唱団が原爆慰霊碑前で賛美歌を合唱
1963/7/31
浜井広島市長、建林正喜広島大教授、今堀誠二広島大教授ら11人が「原水爆禁止と平和を願う緊急声明」を出し「日本原水協に党利党略を持ち込み、混乱を招くことは人類の純粋な願いを愚ろう」と社共両党をきびしく批判。3人を除く署名者=本間大吉(弁護士)、河村政任(広島キリスト教信徒会会長)、田上すみ子(段原本町婦人会長)、土谷厳郎(病院長)、長崎広次(広島大教授)、美藤志津子(婦人有権者同盟広島支部長)、相原和光(広島YMCA総主事)、土本秋江(医師)
1963/7/31
森滝市郎日本被団協理事長が「日本被団協は全国の大会代表が広島に臨むにあたってあくまで厳粛な態度を保つよう訴える」と声明を発表。主導権争いを続ける社共両党を置いて、開催地の責任で開く原水禁世界大会を成功させようと呼びかける
1963/7/31
全米科学者連盟が米英ソ3国部分核停条約の全面支持を発表
1963/7/31
ウルブリヒト東ドイツ国家評議会議長が、米英ソ3国と同時に部分核停条約に調印すると確約
1963/7/--
1960年ごろを境に減少傾向の被爆者の白血病は、慢性型が減り急性型に。62年までの17年間に広島市で発生した白血病は288人、うち被爆者が64%の184人。広島大原爆放射能医学研究所の渡辺漸教授が21日から北海道大で開かれる第5回日本放射線影響学会で発表へ
1963/7/--
広島県文化会議が峠三吉氏の碑文の書体を広島市南観音町、三宅一子さんの作品に決定
1963/7/--
広島地方気象台が18年前の被爆当日の「気象日誌」を公表
1963/7/--
米原潜寄港問題で浜井広島市長が社会主義青年同盟広島地区本部に回答。「個人としては日本の平和を脅かす措置には反対。決議案は市議会の問題であり、私としては反対決議案を議会に出す意思はない」
1963/7/--
広島地方気象台勤務の被爆者山根正演さんが原爆慰霊碑の焼き物。原爆資料館の売店に陳列へ 1963/7/--
海外で開かれる「広島記念集会」にあて浜井広島市長が「お互いに平和のためにつくそう」とのメッセージを送る。米カリフォルニア州オークランド市の婦人平和行進団議長B・ライルソン夫人、シドニー広島記念委員会議長A・G・ロウ氏、ニューヨークの平和行進センター、F・カーペンター女史、ニュージーランドの世界連邦推進本部議長G・C・ティットマン氏らあて
1963/7/--
広島の母親たちの手による童話集「つるのとぶ日-ヒロシマの童話」が東都書房から出版へ。著者は大野允子、山口勇子、宮本泰子、御手洗旬江さんら「子供の家」童話研究会の同人
1963/7/--
広島市千田町で被爆した天津竜子さんが同じ運命にあった5人の女性と舞踊団「天津竜子一座」を結成、東京・浅草や別府で活躍
1963/7/--
映画監督山際永三氏と前衛画家岡美行氏でつくる「原爆戦後史研究会」が活動続ける
1963/7/--
渡米治療中に亡くなった原爆乙女の中林智子さんの母、美晴さん(東京・中野区野方)がノーマン・カズンズ氏へのお礼として日本人形作り
1963/7/--
広島県庁厚生課の課長補佐、医学博士の嘉屋文子さんが被爆時の記録「きのこぐも」を自費出版。県庁衛生部職員や被爆当時の医師の記録、嘉屋さんの本籍地、大竹市小方町三川石地区の妻たちの記録を収録

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