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ヒストリー

ヒロシマの記録1961 6月


1961/6/2
米の講演旅行から広島市に帰ったアール・レイノルズ氏が広島駅頭で、国際平和を追求する研究施設「広島平和センター」設立構想を明かす
1961/6/3
ケネディ米大統領とフルシチョフ・ソ連首相の首脳会談がウィーンで始まる。核実験停止など討議
1961/6/7
日本原水協が常任理事会を開き、第7回原水爆禁止世界大会の議題、日程などを決める。スローガンは「軍備全廃促進」で、海外代表は50カ国、150人が参加へ
1961/6/8
日本原子力研究所の東海研究所にラジオアイソトープ(放射性同位元素)試験製造工場が完成。アイソトープ国産化計画の一環
1961/6/9
京大劇団「風波」が「風化」(作・こばやしひろし氏)を上演(「原爆被災資料総目録・第2集」)
1961/6/10
日本原水協の有力メンバーである全国地域婦人団体連絡協議会(700万人)と日本青年団協議会(430万人)が「原水協は独善的な方針をとっている」と連名で声明発表。(1)原水協組織の指導部および組織の民主化(2)特定の政治体制や階級的イデオロギーを押し付ける誤りの是正(3)あらゆる政治課題をとりあげて一方的な運動を推進する誤りの是正(4)原水爆禁止、被爆者救済という共通点で、あらゆる階層の人々が大同団結する世界大会の実現-の4点を示し、運動路線の再検討を要求
1961/6/11
ソ連政府が、米ソ首脳ウィーン会談でケネディ大統領に手渡した対ドイツ平和条約問題と核実験停止問題の覚書全文を発表。「核実験停止は完全軍縮との同時解決が望ましい」
1961/6/12
マヌエル・モノレ・サンチェス上院議長らメキシコ経済視察団が広島市を訪問。サンチェス議長は「今の広島の姿こそ平和の在り方を示す指標であり、人類不滅の証拠」と語る
1961/6/13
第二次世界大戦末期、1回の空襲で3万5,000人が死亡した東ドイツのドレスデン市議会から浜井広島市長に、ド市の平和式典や平和行進の写真と連帯を呼び掛けるメッセージが届く
1961/6/13
共同通信が「米政府は『核停白書』ともいうべき文書の起草に着手したもよう」と伝える。白書はジュネーブの核実験停止会議の足取りを説明する内容。核実験を再開した場合の世論の風当たりを最小限に食い止めるのが狙いとみられ、核実験停止会議の決裂を意味する
1961/6/14
日本原水協の国民平和大行進始まる。8月に東京で開かれる第7回原水禁世界大会に向け、全国4コース、8カ所からスタート。山陽、東海道コースの西部行進班は、広島市の平和記念公園に原水禁広島協議会の関係者や労組員ら約600人がつめかけ、原爆慰霊碑に黙とう、東京までの1,000キロの第一歩を踏み出す
1961/6/14
朝永振一郎、杉村春子、末川博、亀井勝一郎、坂田昌一、中島健蔵、鈴木一雄の各氏が「7人の集まり」を結成。平和アピールを発表(「平和運動20年運動史」)
1961/6/15
茨城県東海村に日本原子力研究所が開設されて満5年。発足当時127人だった所員は1,337人に増え、国産1号炉(熱出力1万キロワット)の完成も間近で、国際的にも第1級の原子力センターに 1961/6/16
被爆直後、国際赤十字代表として広島に15トンの医薬品を持参したマルセル・ジュノー氏がジュネーブで死去。57歳
1961/6/17
米がフルシチョフ・ソ連首相の覚書に対する回答を発表。(1)核実験停止問題を全面軍縮問題に包含させたいというソ連提案に反対(2)ジュネーブ核実験停止会議の行き詰まりの責任は西側にはない(3)実験監視のトロイカ(3人制)方式に反対(4)核実験停止条約の締結に失敗すれば各国は実験再開の必要に迫られよう-の4点が骨子。ジュネーブ会議のツァラプキン・ソ連代表は「重大な情勢を招く」と論評
1961/6/19
東ドイツ社会主義統一党機関紙が、ジュネーブ核実験停止会議のツァラプキン・ソ連代表が「米が核兵器実験を再開すれば交渉を打ち切る」と述べたと伝える
1961/6/20
池田首相とケネディ米大統領の首脳会談がワシントンのホワイトハウスで始まる。核実験停止問題について池田首相は「日本国民は世界一強い関心を抱いている」と、慎重な対応を要望。ケネディ大統領は「核停問題を軍縮問題に絡ませると解決を困難にする」と理解を求める
1961/6/20
全労会議が中央執行委員会を開き、8月15日に「戦争のない世界実現のための大集会」を開き原水爆禁止と被爆者の救援運動に乗り出す方針を打ち出す。全労会議は「原水協の運動は政治運動化している」と批判的。新しい原水禁運動の組織結成に向けた動きと注目を集める
1961/6/20
広島市内に住む原爆死没者の遺族411人が、原爆遺族の実情を九州各地で訴え、長崎の遺族と交流する「実情訴願旅行」に出発
1961/6/23
西尾末広民社党委員長が広島市を遊説。「第2原水協」の結成について「日本原水協はその性格上、人道主義的な立場に立つものであるにかかわらず、現実は共産党勢力に押され偏向している。全労会議の『第2原水協』結成を支援する」と語る
1961/6/25
ジュネーブ核実験停止会議のディーン米首席代表が、「中国は1962年ないし63年に原爆を保有するかもしれぬ」とテレビ放送で語る
1961/6/25
ニューヨーク・タイムズが「米政府、議会、科学者の間で中性子爆弾開発の可能性が非公式に検討されている」と報道
1961/6/26
米ニューヨークのヒロシマ・ピース・センター協力会が、成長した原爆孤児の奨学金として778ドル(約28万円)を広島市に贈る。大学生4人の学資に
1961/6/27
広島市原爆被爆者協議会(会長、任都栗司広島市議、8万4,000人)が原水禁広島協議会の募金に非協力を決定。(1)日本原水協の運動は偏向しており、被爆者救援を忘れた感がある(2)募金は原水禁世界大会だけのために使われ、被爆者に還元されていない-などが理由
1961/6/28
米が原子力電池を積んだ人工衛星の打ち上げに初めて成功。原子力電池は重さ2キロでプルトニウム238を利用、無線装置に電力を供給
1961/6/28
ケネディ米大統領は記者会見で「ソ連が核実験を秘密裏に行っているかどうかを確かめるため大統領科学諮問委員会に調査を命じた」と語る
1961/6/29
広島市原対課が1960年度の被爆者精密検査の結果をまとめる。一般検診1万9,485人、うち精密検査4,057人。原爆症認定は414人
1961/6/29
ジュネーブ核実験停止会議の米代表団高官が、ソ連が核停条約締結をしぶる理由として(1)中国が核兵器保有国となるまで条約を結ぶべきではないとソ連に主張している(2)ソ連は高度な核兵器をつくるための核実験を必要としている-の2点をあげる
1961/6/29
中国新聞が、日本原水協の政治的偏向問題と「第2原水協」結成の動きについて社説。「原水爆禁止運動はイデオロギーではなく事実の問題であることを忘れてはなるまい。厳正中立の立場に立って初めて世界の人々の共感をかちえ、大きな支持を得るわけで超党派で進められなければ実効はない。第2、第3の原水協ができれば、政治闘争に巻き込まれ原水爆禁止を名目とする政争を繰り返すことになる。日本原水協は政治的偏向の批判を傾聴し、謙虚な気持ちで内部の意思統一を図り姿勢を正すことが望まれる」
1961/6/--
アール・レイノルズ氏が、1958年に米の水爆実験に抗議するためヨット、フェニックスで航行禁止水域に入り逮捕され、その後無罪を勝ちとった体験を日記スタイルでつづった「ザ・フォウビドン・ボォエジ」(禁じられた航海)を出版
1961/6/--
原水爆禁止広島母の会が機関誌「ひろしまの河」を創刊(「ヒロシマの記録」)

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