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ヒストリー

ヒロシマの記録1961 7月


1961/7/1
原対協が広島市国泰寺町に設立した広島原爆被爆者福祉センターがオープン。初日、健康診断に13人の被爆者が訪れたほか、タイプ、編み物、手工芸、洋裁など職業補導の申し込みも順調
1961/7/1
広島大原爆放射能医学研究所の渡辺漸所長ら病理学・がん研究室が1946年から60年まで15年間の広島市の白血病の発生と死亡の実態まとめる。(1)爆心から5キロ以内の白血病患者は164人で全市の66%(2)死亡も全市の白血病患者の65%で、発病・死亡率とも全市の2倍以上(3)発生率は徐々に低下(4)被爆者は慢性白血病が多い。渡辺所長は「爆心から2キロ外でも白血病が発生している。被爆者特有の慢性症状もみられ、医療法の制限距離の拡大が必要」と談話
1961/7/5
グロムイコ・ソ連外相が、駐ソ米大使に核実験停止問題に関する覚書を手交。「米政府の覚書(6月17日付)は建設的で実務的な意見の交換を行う代わりにソ連提案をゆがめ、論争を激化しようとしている」。ソ連の覚書に対し、米国務省は「核実験停止協定を成功裏に締結する希望に新たな打撃を加えた」と声明
1961/7/5
全労広島県地方会議(金本邦夫議長)が中央執行委員会の方針を受け(1)新しい原水禁運動の思想を固める全国討論集会を広島で開く(2)8月15日東京で開く「戦争のない世界実現のための大集会」に、広島から被爆者、青年、女性など各団体代表の派遣-など決定
1961/7/6
広島市原爆被爆者協議会(任都栗司会長)が、原水禁広島市協議会の募金に協力しないという趣旨の決議文を各町内会に送る。原水禁広島市協議会は被爆者協議会に翻意を促すため話し合いを申し入れたが、回答を保留。救援金の配分も宙に浮き、両者のミゾ深まる
1961/7/6
日本原水協が常任理事会を開き、「ヒューマニズムの立場から政党政治に属さない平和運動を続ける」という基本線で全員の意見一致
1961/7/6
科学技術庁が、東京急行電鉄が計画している電車にラジオアイソトープをつけ、放射線で信号を自動的に操作する「原子力信号装置」の実験に、約250万円の補助金交付を決定。「放射線はごく弱い」との理由から乗客には無警告で実施されるため非難の声も
1961/7/7
総評の岩井章事務局長が評議員会で、原水禁運動の進め方について「真の国民運動としてあらゆる階層を含め、国際的には一方の勢力に偏しない平和運動として発展させる」と表明。運動は原水爆禁止を唯一の目標とし(1)核実験停止(2)核武装阻止(3)軍備全廃(4)被爆者救済-の4項目に絞る
1961/7/7
ネバダ核実験場で大規模な地下トンネル網の建設が明らかに。米政府原子力委員会は「ジュネーブ核実験停止会議が失敗して核実験が再開されるとトンネルが使用される」と語る
1961/7/10
世界連邦世界会議(WAWF)定期大会がウィーンで始まり、湯川秀樹京大教授が会長に
1961/7/13
民社党と全労会議が「イデオロギーには全く中立な立場で核兵器禁止・平和建設国民大会を8月15日東京で開く」と正式発表。参加団体は全労、総同盟系労組、日本健青会、友愛青年同志会、日本青年問題研究会など約100団体、発起人に松下正寿立教大総長、関嘉彦都立大教授ら
1961/7/14
国連信託統治理事会が、米に信託統治領の太平洋諸島で核実験を再開しないよう呼び掛ける
1961/7/15
米、英国連代表がハマーショルド国連事務総長に書簡を送り、核実験停止条約締結の緊急性を国連総会の議題に取り上げるよう要請
1961/7/15
社会党が声明。「民社党、全労会議が核兵器禁止・平和建設国民会議をつくるのは、民社党の分裂主義を露骨に表し、労働運動を分裂させるものだ」
1961/7/21
中国世界保衛和平委員会(郭沫若主席)が日本原水協に「第7回原水爆禁止世界大会に13人を派遣」と連絡。安井郁理事長が法務、外務省に善処要請
1961/7/21
米政府原子力委員会とカナダ運輸省が、ストロンチウム90を動力源にしたロボット気象観測所をカナダの北極圏グラハム島に設置する計画を発表
1961/7/23
広島高校生平和集会準備会が(1)8月6日に広島市で広島県高校生平和集会を開く(2)東京の第7回原水禁世界大会への代表派遣-を決定
1961/7/24
ウィーンの学者や文化人でつくるオーストリア広島委員会から3,000人の原水爆禁止署名簿が広島市に届く
1961/7/25
日本原水協の黒田秀俊事務局長が、広島市で「日本原水協は政党には属していない。民社党という特定政党が主導権を握る第2原水協こそ偏向」と語る
1961/7/25
広島県被団協の森滝市郎理事長ら約20人が広島市内で軍備全廃10万人署名を始める
1961/7/25
京都で世界宗教者平和会議開く。28日まで。宗派、教義を超え14カ国、36人が参加。軍備全廃、原水爆禁止、核非武装を訴える京都アピールを採択
1961/7/25
「正しい原水禁運動と平和運動」をスローガンに結成された「核兵器禁止・平和建設国民大会実行委員会」が東京で総会を開き、代表実行委員に松下正寿立教大総長、滝田実全労会議議長を選んで正式に発足。松下代表委員「平和運動に基地問題とか安保問題を持ち込むことが国論を分裂させる。平和運動の成否は国民運動に盛り上げられるかどうかにかかる」
1961/7/26
ケネディ米大統領が上下両院に教書を送り、ベルリン危機に対処するため国防費の増額を要請
1961/7/27
広島原爆病院が1月から6月までの診療概況を発表。死者15人。「白血病がやや減少し、がんの増加が目立つ」
1961/7/28
原水禁広島市協議会が、募金活動を拒否している広島市原爆被爆者協議会と協議。原水禁広島市協議会は「日本原水協に協力はしているが、同協やその下部組織である原水禁広島協議会の傘下団体ではない」と言明
1961/7/29
日本原水協の安井郁理事長と核兵器禁止・平和建設国民大会実行委員会の松下正寿代表実行委員が会談。核実験阻止では意見が一致したが、安井氏の主張する核武装反対のスローガンについて、松下氏は「日本の核武装は心配すべきものではない」と反論
1961/7/30
日本原水協の広島県内平和行進始まる。県内10カ所から8月6日の広島市に向け出発。この日は府中市と比婆郡東城町からスタート
1961/7/30
日本原水協が第7回原水禁世界大会の基本路線を決定。「戦う大会」の第6回大会に対し、「団結の大会」を唱え、基調報告も低姿勢。民社、全労系の第2原水協の動き、日本青年団協議会など組織内の批判に配慮
1961/7/30
日本ペンクラブ(川端康成会長)が広島「憩いの家」(広島市宇品町)の運営資金にと42枚の色紙を贈る。色紙寄贈者は川端康成氏をはじめ井伏鱒二、井上靖、徳川夢声、丹羽文雄、佐藤春夫、東郷青児各氏ら
1961/7/30
全労系の原水爆禁止全国討論集会が広島商工会議所で開く。(1)正しい原水禁運動は東西勢力、民族、宗教、思想、政治信条を超え、人道的に進めねばならない(2)被爆者援護法の制定促進を柱に真の被爆者救済を展開する-との新しい運動路線を決め、8月15日の核兵器禁止・平和建設国民大会に諮る
1961/7/31
在米日本大使館当局者が記者会見で「6月の日米会談の席上、米側から原子力潜水艦の日本寄港を求められたが、国民感情から応じられないと断った」と言明
1961/7/31
「原水爆被害白書-隠された真実」刊行。日本原水協専門委員会編。原水爆被害を科学的に集大成。1959年から物理、医、政治、経済学の専門家に委嘱し、広島、長崎の原爆被害を調査した。「強い放射能のため、広島では軍人、軍属を含め約20万人、長崎では12万人が生命を奪われた。また、残留放射能のため広島原爆病院だけでも56年から59年までに141人が死亡。内訳は爆心地から2キロ以内79人、2キロ以上31人、残留放射能によるもの31人」。ABCCが60年に発表した報告(ホリングスワース論文)は放射能障害を過小評価と指摘
1961/7/31
原水禁広島市協議会会長の浜井広島市長が、「市原水協の自主性は十分保ってゆくが、原水禁運動の趣旨からみて今は日本原水協からの撤退などを取り上げる段階ではない」と、同協議会の基本的な立場を説明
1961/7/--
中国新聞が企画「星は静かに動いた」の中で原爆孤老の実態を報道。広島市福祉事務所の調べを基に「広島市内で生活保護を受けている60歳以上の1人世帯は815世帯で大部分が被爆者であり、原爆症への不安、深刻な生活難に苦しむ」と紹介
1961/7/--
日本画家石井草人さん(広島県佐伯郡廿日市町地御前)が、被爆直後の広島を描いた作品約40点を広島市に寄贈
1961/7/--
田中克己東京医科歯科大教授が「診療エックス線技師の子供は男子が多い」と放射線の遺伝的影響が性比に変動を与えると結論。放射線影響学会に発表へ
1961/7/--
厚生省が1962年度から原爆被爆者に対する医療費の給付範囲について、2キロ以内とした制限を大幅に緩和する方針を固める
1961/7/--
広島観音高校演劇部が、広島地区高等学校文化連盟発会式で「花火」(作・林黒土氏)を初上演(「原爆被災資料総目録・第2集」)

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