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ヒストリー

ヒロシマの記録1960 4月


1960/4/1
仏がサハラ砂漠で2回目の核実験。1回目に比べ小型。日本政府が厳重抗議へ
1960/4/2
広島、長崎に平和の並木を-。日本原水協が全国の地区原水協と外国の平和団体に呼びかけていた供木が140本に。平和記念公園で黒田秀俊日本原水協事務局長、浜井広島市長らが出席し植樹式
1960/4/3
世界平和アピール7人委員会が東京・本郷の学士会館で開き、7人委の存続決める。7人委は前事務局長の日高輝一氏が、チベット内乱問題でネール・インド首相にあてたメッセージが問題となり、湯川秀樹博士が解散提案していた。新事務局長に法政大法学部の内山高三教授
1960/4/4
東西10カ国軍縮委員会でゾーリン・ソ連代表が米の大量破壊兵器の大気圏外打ち上げ禁止提案を拒否
1960/4/4
映画「渚にて」(スタンリー・クレイマー監督)が広島上映。主演グレゴリー・ペック、エバ・ガードナー、アンソニー・パーキンス
1960/4/4
日本原水協の平和植樹運動に呼応して、長崎市が被爆15周年の記念植樹祭を実施。田川務市長らが平和公園内に植樹(「長崎年表」)
1960/4/4
長崎原爆後障害研究会が発足(「長崎年表」)
1960/4/5
仏核実験に抗議するアジア・アフリカグループの2回目の国連特別総会招集決議に日本も同調へ
1960/4/5
米週刊誌ニューズ・ウィークが広島原爆の爆発力は13キロトンと報道。広島原爆は20キロトンと伝えられてきた
1960/4/5
広島市民病院に入院中の広島県安芸郡府中町、楮山ヒロ子さんが急性白血病のため死去。17歳
1960/4/6
全国信用金庫が原爆死没者慰霊のため石どうろう一対を寄進。平和記念公園の戦災供養塔前で献灯式
1960/4/6
ミュンヘン大学教授ら西ドイツの4人の医師が広島原爆病院を訪問
1960/4/8
在日インド大使館から広島「憩いの家」に本40冊が届く
1960/4/8
ウィーンで開かれた国際原子力機関(IAEA)理事会が「核物質の平和利用の際の一連の保健安全基準について同意が成立」と発表
1960/4/11
チェコスロバキア国立室内オーケストラの一行24人が演奏旅行で広島市を訪れ原爆慰霊碑などに参拝
1960/4/13
オーストリアのウィーン国際平和協会会長ジェームス・エンディコット氏から浜井広島市長に「東西首脳会談への期待」を述べてほしいと手紙。エンディコット氏はカナダ出身。第5回原水禁世界大会に出席
1960/4/14
仏核実験抗議の国連特別総会招集要求は定足数に足らず開催できず。総会招集に必要な全加盟国の三分の二の42カ国に、6カ国足りない36カ国しか賛成せず
1960/4/14
原対協の原爆被爆者福祉センター建設用地に広島市役所北側空き地が正式に決定
1960/4/15
仏原子力委員会が、コルシカ島に計画している地下爆発実験場が年末までに完成と発表
1960/4/15
原爆症で広島原爆病院に入院中の角田ミツエさんが多発性骨髄腫のため死去。48歳。原爆病院で骨髄腫の死亡は初めて。本人の遺志で解剖へ
1960/4/16
日本原水協が第6回原水爆禁止世界大会に向けて全国7カ所から出発する「1万キロ国民平和大行進」概要を発表。参加延べ人員3,000万人が目標
1960/4/18
英核兵器反対連盟主催の原水爆反対大行進がロンドンに到着。トラファルガー広場で10万人集会。デモ行進は15日、核兵器研究所のあるオルダーマストンを出発、90キロを4日間かけ歩く。日本からは東大生の向井洋、橘隆志君らが参加
1960/4/18
東ドイツ・自由ドイツ労働組合連盟の招きで、広島県安芸郡安芸町の川本博さんが原爆症の治療と、被爆の実態を訴えるためドイツへ。21日、羽田出発
1960/4/19
米国務省がジュネーブの米英ソ3国核実験停止会議で合意した核実験停止条約草案を発表。(1)あらゆる場所の核兵器実験を禁止し、防止し、差し控える(2)管理機関を設ける(3)管理機関の本部はウィーンに置く(4)管理機関の一部として委員会を設置。委員会は7カ国からなり、うち3カ国は米英ソ、他の4カ国は会議によって選出
1960/4/19
8月6日の被爆の様子を3人の子供に書き残した広島市衛生課長村上敏夫氏に「手記に感動した」の便りが東ドイツから届く
1960/4/21
日本原水協の「全国1万キロ平和行進」沖縄-東京コースが鹿児島県与論島を出発。通し行進に名瀬市職組委員長の真鍋松男さん
1960/4/22
歌誌「林間」同人吉光義雄氏が「原爆文学待望論を疑う」とし中国新聞に寄稿。「読まれない文学は無意味」と強調
1960/4/23
賀川豊彦氏が死去。72歳。神戸市出身。4歳で父母に死別、長じて英語を学ぶためにバイブルを読んで感動。明治学院、米プリンストン大神学部を卒業、キリスト教の宣教を行うかたわら貧者の救済につとめた。全国に生活協同組合、母子保育寮などを建設。著書に「死線を越えて」「一粒の麦」「貧者の心理」など
1960/4/24
東京の熱帯植物生育研究会(飯塚和人会長)が広島市の平和記念公園に米とブルガリアの木々を植樹。公園を世界の植物で彩ろうと1956年から始め5回目
1960/4/26
アール・レイノルズ夫妻らが広島に向けヨットフェニックスでホノルルを出港。レイノルズ氏は1年間、広島女学院大で人類学を講義
1960/4/29
「原爆文学待望論を疑う」とした吉光義雄氏に広島文学会員の中川国雄氏が「可能性の原爆文学を」と題して中国新聞紙上で反論
1960/4/--
広島市東、西保健所が1959年1年間の人口動態をまとめる。死亡率トップは依然がんで19.7%、全国平均を上回る
1960/4/--
広島市が第5回原水禁世界大会で日本原水協から贈られた「嵐の中の母子像」のせっこう彫刻をブロンズ像に鋳造し平和記念公園内に設置を決める
1960/4/--
広島市が1957年4月以降3年間の「原爆被爆者白書」をまとめる。被爆者健康手帳の交付者は8万2,476人、原爆症による死亡者は92人。手帳交付者の65.3%は無職や不明
1960/4/--
1948年にチェコスロバキアで出版された詩集「ヒロシマ」が同国でロングセラーに。広島市を訪れた同国のバイオリニストが紹介。作者は現代チェコスロバキアの著名な詩人フランティシェ・フルビン氏。広島の原爆に対する怒りと犠牲者追悼の25編が収められ、米のオッペンハイマー博士が序文
1960/4/--
広島県町村会が広島・長崎原爆被爆者援護対策協議会に全面協力決める。住民1人あたり10銭の割合で10万2,700円を補助金として支出へ
1960/4/--
広島市が失業対策労働者の生活実態調査。調査数5,713人中37.5%が被爆者

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