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ヒストリー

ヒロシマの記録1960 8月


1960/8/1
原爆犠牲者に対する箏曲を伴奏とした鎮魂歌「御魂よ・地に泣くなかれ」。平和記念公園の平和の灯の点火式のための箏曲「平和の歌」。いずれも広島市公会堂で発表(「原爆被災資料総目録・第2集」)
1960/8/1
ギュンター・アンデルス氏の「橋の上の男-広島と長崎の日記」が朝日新聞社から出版。篠原正瑛氏訳(「奥付」)
1960/8/1
宮内庁が明仁皇太子の被爆15周年慰霊式・平和記念式典出席を正式発表。原爆病院、ABCCも訪問
1960/8/1
周恩来中国首相が北京で「米を含む諸国と平和条約を結び、アジアと西部太平洋に非核武装地帯を設置したい」と表明
1960/8/1
改正原爆医療法が施行
1960/8/1
民社党が東京で「原水爆禁止運動全国代表者会議」。全労など友好団体の約300人が集まり、民社党の方針に沿った「第2原水協」の組織化を決める
1960/8/1
作家の田宮虎彦氏が中国新聞に「広島・長崎・沖縄」を寄稿。「過去は埋没する。それが運命であると思う。だが過去は、埋没するにまかしておいてよい過去ばかりではない。広島の原爆ドームは、よしそれがくずれおちて鉄骨とガレキのたい積と化したにしてもそのあったところにいつまでも残しておかねばならぬのではないか」
1960/8/2
中国新聞が被爆15周年で「外国人の見た広島15年」座談会。出席は復活教会宣教師S・ダブルデー女史、エリザベト短大講師H・ヨーキェル氏、ABCC電子工学技師セイモア・ボゲッジ氏、広島カープ選手平山サトシ氏、留日広島華僑総会会長枕木氏
1960/8/2
東京・妾町の東条会館で第6回原水爆禁止世界大会予備会議。内外代表約300人が出席、安井郁理事長が「平和勢力の強い気迫と積極的な姿勢を示すため、この大会を『戦う大会』と呼びたい」と一般報告。バートランド・ラッセル卿、ライナス・ポーリング博士らから連帯のメッセージ
1960/8/2
全日自労広島分会が浜井広島市長に「慰霊式が県市の合同主催になったため市の主体性がなくなったのではないか。特定の政治勢力に利用されたお祭り騒ぎにならないように」と申し入れ
1960/8/4
京都女子大合唱団50人が原爆慰霊碑前で犠牲者の霊を慰め「み光の…」をコーラス
1960/8/4
広島市医師会(原田東岷会長)が広島市新川場町の平和大通り緑地帯に建立した「原爆殉職医師記念碑」の除幕式。遺族ら約300人が参列。原爆で亡くなった当時の医師会長吉田寛一氏の孫、直枝さんが除幕。記念碑は原爆で亡くなった開業医83人(当時の開業医150人)、軍医122人、看護婦7人の計212人を合祭。福井芳郎画伯の「使命に殉じた医師と看護婦」も除幕
1960/8/4
サンフランシスコYMCA少年部の10人が広島市を訪問。平和式典に参列へ。大阪市とサンフランシスコ市が姉妹縁組を結んだことから来日
1960/8/4
米海軍横須賀基地に停泊中の黒い潜水艦グレーバックに核ミサイル装備の疑い。社会党横須賀支部が緊急執行委員会。米大使館は5日、核疑惑を否定
1960/8/4
東京・妾町で原水禁世界大会予備会議閉会総会。広島の被爆者を代表して池田精子さんがあいさつ。故樺美智子さんの母光子さんも「娘に教えられ、導かれて行動の世界に入りました」とあいさつ
1960/8/4
被爆15周年慰霊式の一環の「線香リレー」の東、北コースが府中市役所前、庄原市役所前をスタート。西、南コースは5日スタート
1960/8/4
中国新聞が夕刊で連載企画「原爆芸能史」をスタート。第1回は映画
1960/8/5
平和記念公園で「嵐の中の母子像」の除幕式。制作者の本郷新氏をはじめ180万円のブロンズ鋳造の費用を負担した広島市婦人会連合会(村上安恵会長)の約80人が出席
1960/8/5
全国1万キロ平和大行進が東京入り。日比谷野外音楽堂で歓迎中央集会
1960/8/5
供養「線香リレー」の最終走者が広島県庁に到着。参加走者1,500人。伴走車で運ばれた線香はトラック1台分
1960/8/6
被爆15周年。平和記念公園で広島県・市合同の原爆死没者慰霊式・平和記念式。明仁皇太子、清瀬一郎衆院議長、中山マサ厚相はじめ約4万人が参列。午前8時、大原博夫広島県知事、浜井信三広島市長が、過去1年間の原爆犠牲者66人、新たにわかった被爆当時の死者95人の計161人を加えた6万414人の原爆死没者名簿を奉納。明仁皇太子が慰霊碑に花輪を供え追悼の言葉の後、浜井市長が平和宣言。原爆乙女の山崎綾子さん、中山紀美子さんが平和の鐘を鳴らす
1960/8/6
午前6時半から広島戦災供養会主催の供養祭。7時半、線香リレーの最終走者が戦災供養塔と慰霊碑に線香を供える。各宗派別の合同慰霊祭は5日夕から6日朝、夕
1960/8/6
平和記念公園の原爆の子の像前で3回目の追悼の集い。広島「折鶴の会」、広島子どもを守る会「あゆみグループ」、レイノルズ夫妻など約200人が参列。4月5日に亡くなった楮山ヒロ子さんの日記「原爆にあった人は早く死ぬと人はいう。そういうことを聞く私は、きょうあるいは明日と思う」(1959年8月6日付)を披露
1960/8/6
東京・虎ノ門社会事業会館で各宗派の宗教団体が主催し「被爆15周年原爆犠牲者慰霊祭」。原水禁世界大会参加者ら1,500人が詰めかける
1960/8/6
第6回原水禁世界大会本会議総会が東京・千駄ヶ谷の都体育館で開会。日本代表1万1,000人、外国代表100余人が参加。安井郁理事長が「世界の期待を裏切ってパリ首脳会談は、冷戦継続政策をとる米帝国主義の手先に葬られた」と一般報告
1960/8/6
広島市の平和記念公園で原水禁広島協議会が「原水爆禁止県民大会」。「軍備全廃で原水禁を」「軍事費を被爆者の治療費と援護に回せ」のスローガンのもとに地域原水協、労組、文化団体、被害者の会代表など約3,000人が参加。社会党の勝間田清一教宣局長が「被爆者の完全治療と生活援護は権利として戦いとらなければならない。世界の平和のためには米帝国主義、それと手を結ぶ日本の独占資本、さらにそれを代弁する日本の政府と戦わねばならない。安保闘争のエネルギーを結集しよう」と演説
1960/8/6
広島市が中山マサ厚相に原爆総合医療研究所の設置を陳情。被爆者治療の調査、研究
1960/8/6
広島県体育協会が主催し、被爆15周年を記念する総合体育大会が市内22会場で。7日も
1960/8/6
若手文学者の会「若い日本の会」の主力メンバー城山三郎、大江健三郎、開高健、桂芳久の4氏が、「若い広島の会」(世話人代表、松本寛氏)の招待で広島を訪問。城山、大江、開高の3氏は初訪問。平和記念式典に参加の後、県教育会館でシンポジウム
1960/8/6
浜井広島市長が平和宣言。「…その惨禍の中から、かろうじて生き残った者の心の底に深く根ざしたものは戦争への強い憎しみと、それを再び繰り返してはならないという堅い決意とであった。あの日から、われわれはあらゆる機会を通じて、懸命にそのことを訴え続けてきた。しかし最近核兵器の研究と生産はますます進み、国際情勢はいっそう緊張を加えてきたことは、憂慮にたえない。いまや人々は原子戦争は勝利の見込みのない戦争であって、それが『全人類の自滅』を意味するものであることを深く知らねばならない。われわれは、すべての民族、すべての国家が人類連帯の精神に立って核兵器の禁止と戦争の完全放棄を成し遂げ、小異を捨てて大同につき、共存共栄のための新しい世界秩序を打ち立てることが急務であると確信する。…」
1960/8/6
明仁皇太子が広島原爆病院を慰問。重藤文夫院長の案内で病室を見舞った後、ABCCへ。ダーリング所長、槙弘国立予防衛生研究所支所長らの出迎えを受ける。午後、似島へ渡り似島学園を訪問。原爆慰霊碑の近くにクスノキの記念植樹。7日は原爆資料館を見学
1960/8/6
今堀誠二氏「原水爆時代下」刊行。三一書房(「奥付」)
1960/8/6
英の原水爆禁止全国青年運動のメンバーが英首相官邸前で、24時間の広島原爆犠牲者追悼ミサ
1960/8/7
広島市御幸橋下流の京橋川の川底から頭がい骨が見つかる。13、14歳の男児のものらしく死後15年ほど経過。原爆被災者とみられる
1960/8/7
第6回原水禁世界大会の階層別協議会の一環として東京・千代田公会堂で原爆被爆者協議会開催。広島、長崎をはじめ全国各地の代表約350人が参加。(1)すべての被爆者の体験記、生活記録を集めて原爆被害の実相と被爆者の苦しみを全世界に訴える(2)一切の原爆被害に対する国家補償法の要求(3)平和運動には可能な限り参加-の3項目を確認▽豊島公会堂で開いた学生協議会は全学連の主流、反主流の主導権争いで流会。高校生協議会も混乱
1960/8/7
広島地区働く婦人連絡協議会、広島子どもを守る会、原水爆禁止広島母の会などが広島市国鉄職員会館で初の「母親大会」。約150人が参加
1960/8/7
作家大江健三郎氏が中国新聞に「ヒロシマ一九六〇」を寄稿
1960/8/8
日本被団協が東京・千代田公会堂で総会。(1)原爆被害に対する国家補償要求(2)原水禁運動をはじめとする平和運動への積極的な参加-などの運動方針を決定。事務局長制に代え理事長制とし初代理事長に森滝市郎氏
1960/8/8
日本原水協が東京・千代田公会堂で被爆者を囲む懇談会。世界大会出席の外国代表、国内代表、被爆者ら約500人が参加
1960/8/9
東京・千駄ヶ谷の都体育館で第6回原水禁世界大会本会議の閉会総会。約1万人が参加、東京アピール、決議、国際共同行動の勧告などを採択。東京アピール「第6回世界大会は戦う大会であることが実証された。日本国民の新安保反対闘争は大きな成果をおさめた。いまこそ世界の平和勢力は帝国主義的政策をとる勢力や、侵略的な軍事同盟、軍事基地政策をとる勢力など平和の敵を完全に圧倒するため団結し強く戦おう」▽全学連主流派が「大会は反政府闘争の運動方針を出さなかった。日本原水協は共産党の私物となっている」として日本原水協、世界大会から脱退
1960/8/9
長崎市で原爆犠牲者慰霊と平和祈念式典。1959年秋、再建された浦上天主堂で午前7時からミサ。田川務長崎市長が平和宣言。「われわれ長崎市民は、15年前の今日原爆の惨禍を身をもって体験した。以来、人類の惨禍と破滅を招来する核兵器を廃止して、すべての国家民族が友愛と信頼に基づく世界平和の実現のためまい進することを訴え続けてきたのである。ここに決意を新たにし世界恒久平和の達成にいっそう努力することを誓う」
1960/8/11
中国新聞社説が「原水爆禁止運動の転機」として第6回原水禁世界大会を批判。「前年のヒロシマ・アピールは2つの世界に原水爆禁止を求めていたが、今年の東京アピールは一方を平和勢力、他方を戦争勢力と断定して運動を進めようとしている。こうしたことでは運動の永続性は望めない。厳正な自己批判と自重を願ってやまない」
1960/8/12
「若い日本の会」の城山三郎、大江健三郎、開高健、桂芳久の4氏と堀田善衛氏が広島市で「文学放談会」
1960/8/12
井上清京大助教授が「平和のための15年」を中国新聞に寄稿
1960/8/12
第6回原水禁世界大会に出席した外国代表13カ国35人が広島市訪問。原爆資料館など見学
1960/8/12
広島市の平和宣言が世界76市の市長と、189の団体、個人に発送される。ホノルル、北京、モスクワの各市長、作家のロベルト・ユンク氏、同アイラ・モリス夫妻、平和主義者ヘレン・ケラーさんら
1960/8/14
広島県青年団協議会が終戦15周年を記念し中国新聞ホールでヒロシマ青年集会
1960/8/15
広島市公会堂で「終戦15周年平和祈念慰霊国民大祭」。新日本協議会、生長の家、戦友連盟、遺族会、原爆被爆者の会、日本民主学生同盟の約3,000人が集まり広島護国神社の大己正晴斎主が神式で行う。「大祭」を記念し、平和記念公園の原爆慰霊碑北側に「祈りの像」を建立、除幕式。日展審査員の横江嘉純氏作。ブロンズ製
1960/8/16
ニューヨークの国連本部で国連82カ国軍縮委員会。ロッジ米代表が核分裂物質の生産停止提案
1960/8/17
広島県、市が原爆被爆者の就業・結婚状況調べ。1958年10月の都市調査の10%を抽出。<結婚>男子は被爆者、非被爆者に差はない。女子は20~24歳で被爆者の未婚率が77.3%(非被爆者65.1%)、25~29歳で被爆者28%(同18.7%)<就業>15歳以上の就業率は男子で被爆者78.3%(同82.6%)、女子は37.7%(同40%)
1960/8/17
浜井広島市長が記者会見で広島市平和記念資料館(原爆資料館)について、「資料館が被爆者や遺族に残酷な思い出をよみがえらせ苦痛を与えているという。このため、同資料館を美術館に転用し資料館は原爆ドーム付近に新しく移したい。財源の見通しがつけば具体化したい」
1960/8/20
原対協(会長、浜井広島市長)が広島市役所北側で原爆被爆者福祉センター起工式。敷地1,980平方メートル、建物面積660平方メートル、3階建て。総工費5,077万円のうち4,700万円はお年玉付き年賀はがき益金の配分
1960/8/21
中国新聞夕刊が原爆ドームの存廃めぐり撤去、存置論特集。浜井広島市長「世論に従って決める」
1960/8/23
志水清広島市保健局長が1957年4月1日から施行された原爆医療法に基づく原爆症認定患者の死亡動向調査。死亡率は57年4.5%、58年5.2%、59年8.6%で平均死亡率は5.7%。結核患者死亡率より低く「原爆症認定は死の宣告ではない」と結論
1960/8/29
原爆医療法改正にともない被爆者健康手帳の書き換え始まる。新しい手帳は「特別被爆者健康手帳」と「被爆者健康手帳」。広島市の6月30日現在の手帳交付者数は8万3,867人
1960/8/--
正田篠枝さんが「あれから15年」を平凡社から出版へ
1960/8/--
茨城県東海村の日本原子力研究所でネズミにガンマ線を照射し、被爆時の生体変化の実験実施へ。東大医学部放射線科宮川正教授ら
1960/8/--
劇団、東京芸術座が「恐怖」上演。岡田豊氏作(「原爆被災資料総目録・第2集」)

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