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ヒストリー

ヒロシマの記録1960 9月


1960/9/2
ナチスによって死刑の宣告を受けたことのある西ドイツの哲学者バルター・クニー氏から広島市民にあてて「生命に対する敬愛の念に結ばれ、手を取り合って進もう」とのメッセージ届く
1960/9/4
米ワシントン・スター紙が「米国防当局はベガトン級爆弾の製造計画を進めている。5年後には実戦に役立つ」と報じる。1ベガトンは10億トン。広島型原爆を20キロトンとすると5万倍
1960/9/5
知的交流委員会の招きで米の原子科学者オッペンハイマー博士が来日。記者会見で「マンハッタン計画に参加した一人として私は日本に原爆が落とされたことを深く悲しんではいるが、この原爆生産計画の技術的成功について責任者の地位にあったことは後悔していない」と述べる。広島へは立ち寄らず
1960/9/9
桧山義夫東大教授と国立公衆衛生院の山県登労働環境衛生室長が「原水爆実験停止後も死の灰の恐怖は増える一方」と警告。19日からジュネーブで開かれる国連科学委員会に報告へ
1960/9/10
西岡敏雄氏作曲の混声合唱組曲「広島は」を中国新聞ホールで開かれた音友会第4回例会で発表(「原爆被災資料総目録・第2集」)
1960/9/11
首相就任後初のお国入りの池田勇人首相が原爆慰霊碑に参拝、原爆病院を見舞う
1960/9/13
原対協が被爆者老人ホーム建設構想打ち出す。被爆者の高齢化に対応
1960/9/13
原爆症治療のため東ドイツを訪れていた広島県安芸郡安芸町の川本博さんが広島に帰る
1960/9/14
原水禁広島市協議会が平和記念館で理事会。加盟団体の洗い直し、市長の会長兼務の可否などを論議。「50団体も加盟しているため運動が最大公約数的になる。市長が会長のため官製原水協になる」などの批判が出たが、急激な改革も困難と当面は現行のままと結論
1960/9/14
原水禁広島協議会が20日から国連総会に出席するアイゼンハワー米大統領とフルシチョフ・ソ連首相に「平和への努力を望む」と要望を決める。ア大統領にはベガトン爆弾の製造中止も申し入れへ
1960/9/15
東ドイツから帰国した広島県安芸郡安芸町の川本博さんが浜井広島市長を訪ね、東ドイツ・ドレスデン市のグーテ市長からのメッセージを手渡す。メッセージ「原爆を受けた広島の若者で理工系の大学に留学を希望する数人を受け入れたい」
1960/9/19
日本キリスト教奉仕団広島地方委員会の被爆者福祉センターが広島YMCAで、被爆者のための日本人形作り講習会を開催。出来た人形は同奉仕団が直接米へ輸出へ
1960/9/23
国連総会本会議でフルシチョフ・ソ連首相、アイゼンハワー米大統領が演説。フ首相は2時間20分の大演説。ハマーショルド事務総長を非難し、国連はいまや一方的存在になったと国連本部の移転を主張
1960/9/24
世界初の米原子力空母エンタープライズが進水。85,350トン、原子炉8基を備え燃料補給なしに世界を20周
1960/9/25
日本被団協(森滝市郎理事長)が広島市で全国代表理事会。1961年8月6日を目標に全国で40万人の被爆者の被爆体験と闘病記録の収集などを決める
1960/9/27
原水禁広島市協議会の浜井会長(広島市長)が国連総会出席中のアイゼンハワー米大統領、フルシチョフ・ソ連首相に「東西首脳会談か大国頂上会談を再開して、冷戦に終止符を打ち、相互の信頼回復を」と手紙
1960/9/--
M・ロシュワルト氏「レベルセブン(第7地下壕)」が弥生書房から出版。小野寺健氏訳(「原爆文学史」)
1960/9/--
広島市が現行の原爆医療法は不十分として第2次改正働きかけへ。9月市会に運動費60万円を計上。1959年10月に第1次改正運動を始めたときに結成の広島、長崎両県市と議会の八者医療法改正対策委員会が存続していることから、同委員会を中心に運動の展開決める
1960/9/--
広島青年会議所が創立10周年を記念し「原爆の子の像」の横に「平和の泉」を寄贈

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