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ヒストリー

ヒロシマの記録1960 11月


1960/11/3
国連総会でエールから提案されている核兵器拡散防止決議案に日本も共同提案国として参加決める
1960/11/3
原爆開発のマンハッタン計画に参加し、米の水爆製造促進を主張したウィラード・リビー博士にノーベル化学賞。炭素14による年代測定方法の発見に対して
1960/11/4
広島原爆病院に入院中の広島市の会社員が病室で自殺。病気を苦にしたとみられる
1960/11/5
原爆医療法の第2次改正を進めるため広島市と同市議会が広島原爆被害対策促進委員会を結成し市役所で初会合。任都栗司市議を委員長に選び、被爆者を2種類に分けている2キロの枠撤廃など要望を決める
1960/11/9
浜井広島市長がオーストリア・ウィーンの「広島委員会」の第1回平和記念祭への出席要請を断る。「市政が多忙」。委員会はウィーン大学のF・マハッキー博士、作家ロベルト・ユンク氏、広島を題材にした「橋の上の男」の作家ギュンター・アンデルス氏らが7月末結成
1960/11/10
京大で第2回全日本放射線影響学会。新潟大理学部や放射線医学総合研究所が「放射能雨の恐怖は減っているが農産物の汚染は続いている」と研究結果を発表(11・11夕)
1960/11/10
仏元老院が政府提出の核武装法案のたな上げを決める
1960/11/11
菊池正士日本原子力研究所理事長が、濃縮ウランの国産化を指示
1960/11/13
原水禁広島協議会が広島市八丁堀で被爆者救援の募金運動。日本原水協が全国一斉に行っている被爆者救援行動日(毎月6~9日)の一環
1960/11/14
インドが国連総会で核実験中止決議案を提出。日本も共同提案国に
1960/11/15
英マンチェスター西南のオルトリンガムで、旧日本軍の捕虜となり、広島で被爆したというブロールズ氏の遺族が、被爆が原因で11日死亡と訴え。検視官が調査へ
1960/11/15
松平康東日本政府国連代表が総会第1委員会で演説。米英ソ3国にジュネーブ核実験停止交渉の成果と進展状況を国連総会に報告するよう要望
1960/11/17
茨城県大宮町に農林省が原子力実験農場(ガンマフィールド)の起工式。総工費2億円、面積65ヘクタール
1960/11/25
日本映画社が記録した被爆直後と、9月から10月までを記録した16ミリフィルム、400フィートが原爆資料館に届き永久保存へ。日本映画社が秘匿していたフィルムを広島市が購入
1960/11/28
イスラエル・テルアビブで開かれた第15回自治体国際連合会議に日本代表団の一人として出席した平塩五男広島県議会議長が帰国。「各国から500人の自治体の首長、議長が参加した。原爆広島の状況を報告したが非常な関心を持って迎えられた。イスラエル全土に放送もした」
1960/11/30
英ハーウェル原子力研究所調査団が「1959年に最大量に達した雨水、大気中の放射能はその後著しく減少」と発表
1960/11/--
ABCCが1949年の開所から1959年までの研究成果を「原子爆弾被爆生存者にみられる放射線照射の遅発性影響」としてまとめる。J・ホリングスワース博士が編集、B5判、22ページ。遺伝的影響については「被爆生存者の遺伝的な危険は少ない」。白血病、がんの発症は被爆距離が爆心に近いほど高い。爆心地から2キロ以内の民間人推計被爆人口と生存者数を示す。0~499メートルの被爆人口6,230人(生存者数220人)生存率3.5%、500~999メートルの被爆人口2万4,950人(同4,240人)同17.0%
1960/11/--
戯曲「第三の火の中で」が発表される。黒羽英二氏作(「原爆被災資料総目録・第2集」)
1960/11/--
英の哲学者バートランド・ラッセル卿が核兵器廃止運動連盟(キャンペーン・フォア・ニュークリア・ディスアーマメント=CND)総裁を辞任。これまでの運動方針に飽きたらず、よりラジカルな不服従運動を提唱したが入れられなかったため
1960/11/--
瀬戸奈々子氏の「かえらぬ鶴」出版。白樺社刊(「原爆文学史」)

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