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ヒストリー

ヒロシマの記録1959 2月


1959/2/1
広島原爆病院に入院中の広島県安芸郡坂町、西本伊三一さんが急性骨髄性白血病で死去。52歳。同病院でこの年5人目の犠牲者
1959/2/2
下関市議会で革新系同志クラブ提出の世界連邦平和都市宣言決議案が保守系議員の反対で否決。反対理由は「世界連邦の性格がはっきり分からないのに、今すぐ趣旨に賛同するより、これから世界連邦の在り方などを研究したうえ再び審議してもよい」
1959/2/2
日本向けモスクワ放送が、極東と全太平洋地域に核武装禁止地帯を設けるとのフルシチョフ・ソ連首相提案に対する日本政府の態度を批判。「日米安保条約は侵略的なもの。日本の公式筋は口では平和を主張し核兵器反対を叫びながら、実際には二枚舌政策を行っている」
1959/2/3
社会党が自民と共同で「非核武装宣言決議案」を国会に提出する方針を決定し、自民に同調を申し入れ。自民は結論を出さず
1959/2/3
ジュネーブの核実験停止会議で米英両国代表が、核実験停止のためのあらゆる査察管理に拒否権を認めようとのソ連要求を拒否
1959/2/3
ソ連科学アカデミーのクルチャトフ氏が共産党大会で「ソ連陸軍は最新式で一層小型の安価な核兵器を持つに至った」と発言
1959/2/5
原水禁広島協議会が広島県教育会館で総会。(1)3・1ビキニデーには広島市や県内各地で大衆集会を開く(2)第5回原水禁世界大会の広島市開催を受け入れる-と決定。3・1中央集会(焼津市)のスローガンである核実験禁止と安保条約改定阻止に関し、「安保改定より原水爆禁止を運動の基本にすべき」「安保改定は当面の緊急課題だから態度を明確にすべき」の意見が対立。結局、スローガンは認める
1959/2/5
西ドイツ・ゴスラー市のベルリン・シュラー、エルケ・フラックの2少女から渡辺広島市長に「広島の被爆者と文通したい」と手紙
1959/2/6
自民、社会両党の国会対策委員長会談で、社会党提案の非核武装宣言決議案の共同提出に対し、自民が対案の「国際平和保持と核兵器に関する決議案」を示す。国連での包括的軍備縮小、国際紛争の平和的解決、核兵器全廃を図るためのジュネーブ核実験停止会議の速やかな合意-などを盛り込む
1959/2/6
非核武装宣言の共同決議案について自民、社会両党が妥協案の作成でいったんはまとまる。7日、自民案「国際平和保持と核兵器に関する決議案」を下敷きに「他国を脅威するがごとき兵器としての核兵器を保持しない」との趣旨を織り込むことで折り合ったが、再び社会党が妥協案に異論。「あらゆる核兵器の保持禁止を内外に宣言するという党の提案趣旨に全く反する」。結果的に決議案はまとまらず、対立は激化
1959/2/9
非核武装宣言決議案問題に関連し、岸首相が衆院予算委員会で答弁。「国会を通じて、自衛隊を核武装しない、核兵器持ち込みによる日本防衛もしないと明言している。これは国民はもとより国際的にも責任ある言明で、一切の核兵器武装をしないということだ」。社会党の佐々木良作氏の質問に答える
1959/2/10
国際司法裁判所に原子兵器反対の告訴を勧める手紙が、西ドイツ・オスナブリック市の医師ジークムント・シュミット博士から渡辺広島市長に届く。「原水爆の危機から世界を救うため、お互いに戦いましょう」
1959/2/10
英国防省が年次国防白書を発表。「中距離弾道ミサイルのブルー・ストリーク開発や原爆の貯蔵増加、水爆製造も着実」などの内容
1959/2/12
日本学術会議と30の学術団体主催の第3回原子力シンポジウムが東京・学士会館で開会。13日まで。テーマを「原子炉」一本に絞り、108編の発表と放射線許容量、核融合反応などについて総合講演討論会
1959/2/14
ウズベク共和国のゴーリキー記念ロシア・ドラマ劇団が、ソ連で療養中の長崎の被爆者、永田尚子さんの物語を劇化した「竜と太陽」をモスクワで上演へ。モスクワ放送が伝える
1959/2/14
日本原子力学会が発足。東京・学士会館での創立総会に原子力関係者200人。会長に茅誠司東大学長を選出、会員約800人
1959/2/14
長崎原爆病院に入院中の長崎市愛宕町、長崎市役所監査事務局長西川篤一氏が急性白血病で死去。56歳。長崎でこの年3人目の犠牲者
1959/2/16
非核武装宣言決議案問題で自民、社会両党の協議が決裂。17日、両党がそれぞれ独自の決議案を提出へ。自民は「国際平和保持と核兵器に関する決議案」、社会は「非核武装宣言に関する決議案」
1959/2/19
日本キリスト教広島被爆者福祉センター(広島YMCA内)を訪れたアジア・キリスト教協議会総主事アラン・ブラッシュ氏が、被爆者の窮状救済のため、同協議会理事会(4月)に募金を呼び掛けへ
1959/2/20
原子力委員会の核融合専門部会が、1960年度から基礎研究のほか、中型の核融合反応実験装置を造って研究を進める方針を内定
1959/2/20
ウォード英空相が空軍予算報告書を発表。その中で「英はNATOに核兵器を積む爆撃機を供給する」と述べる
1959/2/20
長崎原水協が市内の小中学生の集めた折りづる100万羽を日本原水協に送る(「長崎年表」)
1959/2/20
カナダのジーフェンベーカー首相が下院で、「カナダ軍は核兵器で装備されることになろう。ただし原子爆弾は米軍の管理下に置かれる」と述べる
1959/2/23
中国新聞社と中国新聞社会事業団が広島原爆病院の患者に書籍512冊を寄贈。同事業団が前年8月から全国有名出版社へ「原爆患者に贈る書籍運動」を呼び掛け、9社が協力
1959/2/24
日本原子力発電会社がコールダーホール型改良発電炉を英から買い入れることを発表。発注先は「GEC-富士電機」グループ。価格は炉本体16億円、総建設費約300億円。年末に茨城県東海村で着工予
1959/2/25
浦賀船渠が原子力航海訓練船の建造計画を発表。国内の原子力船計画は川崎重工の海洋観測船、大阪商船の移民船、三菱グループのタンカーに次ぎ4番目
1959/2/26
水爆を製造している英のオルダーマストン原子力工場で爆発事故。死者2人。英原子力公社は「事故は爆発物をトロッコから降ろした際に起こった。爆発物は通常の型のもので放射性物質は含まれていない。工場職員および一般大衆に対する放射能の害は全くない」
1959/2/26
米核政策健全化委員会事務局長ドナルド・キース氏から渡辺広島市長に手紙。「ジュネーブの米英ソ3国核実験停止会議に第2回の訴願文を提出するので署名をお願いしたい」
1959/2/26
原水禁世界大会に参加した平和自転車リレー実行委員会が広島市内で第1回打ち合わせ会。8月6日に同市で全国青年平和大会の開催を決定。会名も平和友好青年協議会に改める
1959/2/27
日本平和大会が東京で開会。28日、日米安保条約改定交渉の打ち切り要求決議などを採択し閉会
1959/2/28
文部省科学研究費による放射線総合研究班班長会議で、東大農学部の桧山義夫教授が自然には存在しない人工放射性物質プルトニウム239の地上落下を発表。原水爆実験による汚染。アルファ線を放出し、エネルギーはストロンチウムの20倍、半減期も2万数千年と長い。桧山教授らが食物を通した人体影響など研究へ
1959/2/--
近代映画協会、新世紀映画の共同製作映画「第五福竜丸」(新藤兼人監督)が、広島市の帝劇で特別試写会
1959/2/--
日本原水協と日本被団協が、原爆被害者の援護法制定や原爆白書作りを目指し、広島、長崎両県内の被爆者計500人(広島400人、長崎100人)を対象に実態調査を実施へ。広島では学者6人が被爆者の生活、健康、精神的苦しみや原水禁運動、日米関係、憲法改正など総合的な被爆者の生活実態と意識を面接調査
1959/2/--
動員学徒援護会(草葉隆円会長)が動員学徒の最期を記録するため映画化を計画。原作を依頼された作家火野葦平氏が14日、広島取材へ。全国動員学徒の死没者4万人中1万2,000人が広島の原爆犠牲者
1959/2/--
原子燃料公社がウラン粉末を吸うウラン鉱山労働者の放射能障害予防対策として東京・労働科学研究所に依頼していた動物実験の中間報告がまとまる。鳥取県人形峠で採掘のウラン鉱石を食塩水に溶かし注射したネズミ6匹のうち5匹に肺がん
1959/2/--
就航予定の世界最初の原子力砕氷船、ソ連のレーニンの内部写真をソ連・タス通信が公表

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