×

ヒストリー

ヒロシマの記録1958 1月


1958/1/3
西ドイツが中欧非核化を呼びかけるポーランド・ラパツキー外相の提案を検討中と発表。東西両ドイツとポーランド、チェコスロバキアの非核化めざす
1958/1/4
マクミラン英首相がソ連と西欧諸国間の不可侵条約締結を提唱
1958/1/5
インド訪問中のシロキ・チェコスロバキア首相とネール・インド首相が「核実験の即時停止」を共同声明で呼びかけ
1958/1/5
ジャクソン米民主党上院議員が「米はポラリス中距離弾道ミサイルを備えた原子力潜水艦を100隻造るべきだ」と主張
1958/1/6
岸首相が茨城県東海村の日本原子力研究所を視察
1958/1/9
ブルガーニン・ソ連首相がNATO、ワルシャワ条約加盟国19カ国に書簡を送り、原水爆実験即時停止などを協議する全欧首脳会議開催を提案
1958/1/11
広島原爆病院に入院中の庄原市、五刀吉之さんが原爆症のため死去。死因は肝臓がん。44歳。1958年初の犠牲者
1958/1/11
原爆問題に悩んだ東京の高校生が広島県佐伯郡大野町の山林で自殺。死の前に原対協にアルバイトの収入を寄付
1958/1/13
広島市が原爆医療法に基づき市立中学の被爆生徒のうち3年生、1,611人の集団検診を始める
1958/1/13
米国防総省が原爆搭載機が国内で墜落、炎上したと発表。核爆発は起こらず
1958/1/13
ノーベル化学賞受賞者の米ライナス・ポーリング博士がハマーショルド国連事務総長に44カ国9,235人の科学者が署名した核実験禁止の国際協定を求める請願を提出。ノーベル賞学者37人を含み、日本からは湯川秀樹博士ら1,141人。「原水爆実験が行われる度に世界中に放射能禍を増している。増えた放射能は全世界の人類の健康を損ない、増殖機能がおかされ身体障害児が将来数多く生まれる原因をつくっている。…核爆発実験停止の国際協定は一般軍縮の第一歩となり、やがて核兵器の廃止となり人類に破滅をもたらす原子戦争を回避し得る」
1958/1/13
原爆医療法関係予算が大蔵省の1次査定で半分に。厚生省要求3億2,238万円が1億6,274万円
1958/1/15
世界平和アピール7人委員会が国連に、米ソ巨頭会談の開催あっせんを勧告。会談のテーマは核兵器の実験と使用禁止、軍縮。7人委の国連勧告は8回目
1958/1/15
アデナウアー西ドイツ首相が外交政策で演説。ポーランド提案の中欧非核化案を拒否
1958/1/16
日本学術会議の放射線影響調査特別委員会・医学班が1958年度事業として放射能の影響による白血病、肺がんなどの統計データ作成を決める
1958/1/16
広島県被団協が原爆医療予算の復活を県選出の国会議員らに働きかけ決める。(1)一般健康診断費の単価アップ(2)医療交通費の復活(3)入院中の患者の生活費として健康保険並みの傷病手当を
1958/1/17
東京で開かれた日本学術会議放射線総合研究班長会議で東京歯科大の田中克巳教授らが放射線の影響による不妊、流産率などを発表。「死産、自然流産ともエックス線撮影従事者に多い」
1958/1/18
原爆医療法関係の1958年度予算が確定。前年度より450万円減の1億7,000万円。厚生省要求の約半分。新規要求の医療交通費などは全額削減。健康診断の低受診率が響く
1958/1/18
広島女学院高校の「ともしび会」が広島原爆病院の前庭に花壇をつくろうと勤労奉仕始める。同会は1957年11月、同校生徒有志420人が集まってできた
1958/1/18
広島原爆障害研究会が間接被爆者に警告。(1)残留放射能の影響を無視してはいけない。直接被爆しなかった者でも精密検査を受けねばならない(2)死体、建物の処理など清掃関係に当たった者は死の灰を吸った可能性があるので特別な注意を要する(3)8月6日から1週間以内に爆央から1.5キロの範囲内で行動した人は相当の影響を受けている(4)それ以外の条件の人でも1カ月以内に市内で行動した場合は危険性がありうる
1958/1/20
1958年度予算で広島大医学部が要求していた「原子放射能基礎医学研究施設」が認可される。文部省要求の同研究室新設人件費として50万円が認められる
1958/1/21
広島原爆病院に入院中の広島市東観音町、永山常次郎さんが原爆症のため死去。死因は肝硬変症。52歳。この年2人目の犠牲者
1958/1/22
藤岡由夫原子力委員が国際原子力機関のアイソトープ部長に就任
1958/1/22
広島県衛生部が広島市を除く県内の被爆者健康手帳交付状況と健康診断結果をまとめる。手帳は3万441人に交付、一般検査受診者は1万4,600人。うち精密検査が必要なのは17%の2,486人、さらにその10%、240人が要治療者
1958/1/23
広島市医師会が被爆者の健康診断受診率アップに協力を決める。学区内の被爆者を土、日曜日ごとに集団検診。前年の受診者は予定の4割、1万1,407人
1958/1/24
米紙ニューヨーク・タイムズが原爆症で死んだ広島市の永山常次郎さんについて論評。「永山氏は1945年8月におけるわれわれの戦争行為によって死亡した本年2人目の犠牲者だという。すでに十分すぎるほどの人々が生命を落としている。広島、長崎の原爆による死者は約15万2,000人と言われているが、原爆投下によってどのくらい寿命が短縮されたか、いまでも知れないし、今後も決して知ることはできないであろう」
1958/1/25
アイゼンハワー米大統領が原子力の平和利用を強調した特別声明を発表
1958/1/27
日本原子力産業会議が原子力船懇談会と原子力災害補償問題特別委員会の設置を発表
1958/1/27
放射能が人類に与える影響を研究する国連科学委員会がニューヨークで始まる。5週間。日本からは都築正男日赤中央病院長、森脇大五郎都立大教授、田島英三立教大教授、桧山義夫東大教授が参加
1958/1/27
広島市役所が被爆の跡をとどめた市庁舎正面の窓枠の取り換え工事に着手
1958/1/28
島根県温泉津町が広島市原爆被害者の会連合会(会長、渡辺広島市長)の被爆者を温泉治療に招待。30人、2週間。町が宿泊費15万円を予算計上
1958/1/28
東京・虎ノ門で第2回アジア・アフリカ諸国民会議の日本代表団帰国報告会。会議で代表団の1人久保山すずさんが議長団から発言を求められながら、自民党の園田直氏らによって発言を抑えられた経緯に論議が集中
1958/1/29
岸首相が衆院本会議で核問題について答弁。「わが国の核兵器武装や核兵器の日本持ち込み拒否は以前から明確に言っている」「極東の核兵器非武装地帯設置や米ソ日中不可侵条約締結などは現実的でない」
1958/1/--
米ロックフェラー財団が、日本の国立遺伝学研究所の「動物における放射線の遺伝的影響」研究に3年間、5万2,000ドル(1,820万円)の援助を決定
1958/1/--
米海軍5番目の原子力潜水艦サーゴ2が進水
1958/1/--
厚生省が「放射性物質による生活環境の汚染防止に関する法律案」の検討を開始
1958/1/--
原対協が「広島原爆救護医療史」の刊行を決める
1958/1/--
広島県衛生部が被爆者の精密検査で認定基準づくり。「医療認定基準」と「認定申請の手引」。認定基準=(1)2キロ以内で被爆し造血臓器、肝臓、脾臓、内分泌障害がある者(2)2キロ以上で被爆しても被爆後、急性症状を呈し(1)と同じ障害がある者(3)2キロ以内で被爆し白内障のある者(4)距離にかかわらずケロイド症状のあるもの
1958/1/--
ABCCが10年計画で心臓病研究に着手

年別アーカイブ