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ヒストリー

ヒロシマの記録1958 2月


1958/2/1
広島市堀川町で有志が、堀川町地区町民慰霊碑の除幕式。同町内の犠牲者185人の霊をまつる。碑文「殺身以成仁」
1958/2/1
広島市がABCCとの間で原爆医療法に基づく一般検査実施の委託契約を締結(「目で見る原爆傷害調査委員会-放射線影響研究所40年」)
1958/2/1
広島県被団協が県教育会館で常任委員会。健康診断の受診体制強化のため精密検査の指定病院増加など要望決める
1958/2/1
菊池正士東大原子核研究所長が藤岡由夫氏の後任の原子力委員就任を受諾
1958/2/2
広島県教育会館で原水禁広島協議会理事会。理事長に森滝市郎広島大教授、常任理事に藤居平一氏ら12人を決める
1958/2/2
トルーマン前米大統領が米CBSテレビの「シー・イット・ナウ」で「私は広島、長崎の原爆攻撃を指令した後に、良心のかしゃくを少しも感じなかった。これからも万一の場合は水爆の使用は確かだ」と述べる。「当時米軍はまもなく関東平野と日本の南西部に敵前上陸を行う計画だった。これには150万の兵員を必要とし、わが方に50万の負傷者と25万の死者を出すことは必至だった。われわれが強力な新兵器を持っていた以上、これが大量殺人兵器だからといって私はこれを使うことに良心のかしゃくを感じることはなかった。だれも戦争は望まないし、戦争には反対だが、戦争に勝てる兵器を持ちながらそれを使わなかったとすればばかげたことである。私は戦争に水爆が使われないよう希望するが、万一世界が大混乱に巻き込まれれば水爆は使われるだろう。このことはまちがいない」
1958/2/4
米上院軍縮特別分科委員会のハンフリー委員長(民主党)が上院本会議で「米国は軍縮一括提案から核実験停止を切り離し、国際監視のもとに2年間核実験を停止する交渉に応じるべきだ」と提案
1958/2/4
東京・丸の内工業クラブで「第2回アイソトープ会議」。中泉正徳東大名誉教授が「日本人は特に放射線に弱い」
1958/2/5
マクミラン英首相がオーストラリアで「英国は世界戦争を防止するために第一級の核武装国とならなければならない」と発言
1958/2/5
原水禁広島協議会がトルーマン前大統領のCBSテレビ発言に対し抗議文。「平和のために水爆を使うことは人類の生命と使命に対するぼうとくである。地球のどこのだれの上にもヒロシマを繰り返させてはならない。人類の名においてあなたがこの言葉を撤回され、心から平和のために尽くされることを要求する」
1958/2/6
米コロンビア大学のローレンス・カルプ博士らが最近1年間の子供のストロンチウム90の平均蓄積量は50%増加と発表
1958/2/6
長崎原爆被災者協議会(長崎被災協)が、トル-マン前米大統領の発言に抗議電報(「長崎年表」)
1958/2/6
原対協が困窮者に生活援護費の給付決める。原爆症の治療を受けたくても入院中の生活を脅かされる被爆者の治療促進が目的。1958年度90万円を計上。1カ月6,000円以内
1958/2/7
トルーマン発言に対し大原博夫広島県知事と渡辺広島市長が抗議声明。大原博夫知事「非戦闘員の大量殺りくを伴う原爆攻撃は当然国際法に違反し、人道上からも許すことができない。しかも日本各地で数万の被爆者が生命の危険にさらされているとき、万一の時は水爆が使用されるだろう、という発言は全世界の世論に背を向け、全人類の良識を踏みにじるもはなはだしい。世界で最初の原爆を受けた広島市民としてやりようのない怒りを感じる」。渡辺市長「戦争中とはいえ無防備の都市に原子爆弾を落とし、罪なき市民を多数殺したことは人道上許しがたいことである。さらに今後も情勢によれば水爆が使用せられるであろうという言葉は、原水爆禁止の世論が高い今日かさねて遺憾に思う」
1958/2/8
広島県、市が広島市役所で原爆医療協議会。「被爆者健康診断の受診者増のため開業医も原爆医療法にもとづく指定医療機関に」
1958/2/9
原水禁広島協議会がエニウェトク環礁での米核実験に抗議船を出す米クエーカー教徒に激励の手紙。抗議船はペンシルベニア州フィラデルフィア核兵器反対非暴力行動委員会が計画
1958/2/10
米のエニウェトク核実験に抗議する米ペンシルバニア州フィラデルフィアの核兵器反対非暴力行動委員会の帆船ゴールデン・ルールが出港。アルバート・ビジェロ元海軍中佐ら4人乗り組み▽サンペドロからエニウェトクへの出港は3月25日
1958/2/11
米太平洋軍司令官のスタンプ海軍大将が記者会見。「米、英の原子兵器実験停止は自由陣営の一員としての日本の防衛を弱めることになる」
1958/2/11
東京・参院議員会館で日本原水協の第4回全国総会。全国32都道府県と21団体代表167人が出席。8月中旬に東京で第4回原水禁世界大会開催を決定。大会議題は原水爆禁止と軍縮問題。運動方針として(1)3月1日のビキニ記念日を中心にエニウェトク実験抗議(2)日本への核兵器持ち込み禁止協定実現、自衛隊の核武装反対、新島、沖縄のミサイル基地化反対(3)日本政府提案で核兵器禁止をテーマに東西首脳会談(4)原爆被災者の救援法の制定、医療機関の設置要求-を決める。このほか、総会では▽アジア・アフリカ諸国民会議における久保山発言問題をめぐり激論▽日本被団協の提案で「トルーマン発言」に対する抗議決議を採択▽日本原水協代表委員に日本被団協の森滝市郎代表委員が加わる
1958/2/13
広島市議会が臨時市会を開きトルーマン発言に抗議の声明採択。「20数万の犠牲者の苦しみの中に生きてきた広島市民は世界平和のいしずえとなることを崇高な義務とし、いかなる理由によるとも世界のいずれの国も地球のどこのだれの上にも核兵器使用の過ちを繰り返してはならないと確信している。…本市議会は市民の憤激をもって抗議するとともに人類と平和の名においてその言葉を撤回し世界平和のためその義務を尽くされんことを米と米国民の知性と平和への良心に訴える」
1958/2/14
米政府原子力委員会が4月5日からエニウェトク水域に核実験のため立ち入り禁止域を設定すると発表。約133万平方キロ▽外務省が遺憾の談話
1958/2/14
参院本会議で岸首相が核兵器で答弁。「核兵器の日本持ち込みを拒否する考えはすでに明らかにしている。日本の意思に反して米軍が核兵器を持ち込むことはないと考える。領海、領空内についても持ち込みを拒否する」
1958/2/15
広島市の平和記念館で「平和をきずく児童生徒の会」が総会。トルーマン発言に抗議決める
1958/2/15
東京・神田の教育会館で核兵器禁止高校生集会。原水爆禁止高校生連絡協議会の主催で都内、神奈川、埼玉の高校生約300人が参加
1958/2/18
日本ペンクラブから広島「憩いの家」へ会員の蔵書や自著200冊届く。憩いの家常任理事の田辺耕一郎氏の呼びかけにこたえる
1958/2/19
政府が核実験の即時中止を駐米公使を通し米国務省に正式申し入れ。「核実験の人類におよぼす重大な脅威にかんがみ、人道的考慮に基づき、すべての核実験は即時中止さるべきである…」
1958/2/22
広島県被団協が被爆者の温泉治療に全面協力決める。初のケースとして賀茂郡原爆被害者団体協議会の別府自費治療を補助
1958/2/23
米政府原子力委員会が「ソ連がメガトン級の核実験を実施」と発表
1958/2/26
原爆資料館に原子力平和利用資料としてマジックハンド、各種原子炉の模型、放射能測定器などが米から寄贈される
1958/2/26
アイゼンハワー米大統領が定例記者会見で「核実験停止は困難」と見解。「NATO諸国の一部がそれぞれ核兵器の生産を進めており、それぞれの段階で核実験が必要。これらの国と協定を結んでいる以上、米だけがソ連と協定を結ぶことは困難」
1958/2/26
サンズ英国防相が下院で「ソ連から大規模な攻撃を受ければ、通常兵器攻撃でも核兵器で報復する」
1958/2/26
田川務長崎市長が浦上天主堂の遺跡を現地に保存するよう天主堂の司教に申し入れる(「長崎年表」)
1958/2/27
米政府原子力委員会が「ソ連が北極圏北側でメガトン級の核実験を2回にわたって実施」と発表▽気象庁観測部が全国各地で異常微気圧振動を観測。「ソ連圏で起こった最大の核爆発実験によるもの」と発表
1958/2/28
国連科学委員会が総会提出用の放射能の影響に関する報告書草案をまとめる。「現在のまま核実験を継続すれば空気の汚染が増加し、何らかの影響を生物に与える。不必要な核実験は停止するのが望ましい」
1958/2/--
厚生省が全国の原爆被爆者の健康診断受診状況まとめる。健康手帳交付数に対する健康診断受診者率は全国24%、広島市18.6%、広島県10.8%、長崎市28.5%、長崎県32.4%
1958/2/--
エニウェトク核実験抗議船のアルバート・ビジェロ氏から日本原水協に手記。「原爆乙女を自分の家に預かったことで今回の行動を決意した。戦争を根絶する以外に彼女たちにこたえる方法があるだろうか。直接行動以外に一般市民はもはや自分の政府に耳を貸してもらうことはできないのだ」▽ビジェロ氏宅に世話になった原爆乙女の広島市観音町、小松沙代子さん、同段原新町、可愛川良江さんらが日本友和会FOR広島支部で抗議船の留守家族に送る寄せ書きなどつくる激励会を開く

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