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ヒストリー

ヒロシマの記録1958 6月


1958/6/4
総評の招きで来日中の東ドイツ自由労働総同盟の代表6人が広島市へ。「東ドイツでは『原爆の子』が無料上映され反響を呼んでいる」
1958/6/5
ルイス・ストロース米政府原子力委員長が辞任
1958/6/5
湯川秀樹博士、バートランド・ラッセル卿、ジョリオ・キュリー博士、ジャン・ポール・サルトル氏、ニコライ・セミョーノフ博士らがスウェーデン・ストックホルムで開く「軍縮と国際協力のための世界大会」(7月16~22日)支持のアピール。モスクワ放送が伝える
1958/6/6
ソ連共産党機関紙プラウダが「ソ連の地球観測年(IGY)学術調査船ビチャージが米核実験の放射能を受け、調査を中断せざるを得なかった」と報道
1958/6/6
琉球立法院が核兵器持ち込み反対を全会一致で決議。米空軍の中距離弾道ミサイル(IRBM)ソアの沖縄持ち込みに抗議
1958/6/6
ABCC調査のため来日中の米カリフォルニア大教授のハーディン・ジョーンズ博士が東京で「寿命に及ぼす放射線その他の影響」と題し講演。「放射線許容量は世代の積み重ねによる遺伝への影響を考慮し、個人単位で考えず全人口の蓄積量を単位として考えるべきだ」
1958/6/10
米政府原子力委員会と国防総省が「ビキニ環礁で今年5回目の実験を実施した」と発表
1958/6/11
米英首脳会談終わる。核実験中止については米議会が原子力法を改正し、米が核兵器に関する情報提供を保証するなら英も同意-でまとまる
1958/6/11
米核実験抗議船ゴールデン・ルールのアルバート・ビジェロ氏が記した「なぜ私は水爆実験区域に乗り入れようとしているのか」のパンフレットが任都栗司広島市議会議長に届く。「すべての核兵器の実験は野蛮であり、悪であり、人間のすることに値しないと心の中で固く信じているからです」
1958/6/11
米核実験抗議船ゴールデン・ルールに代わり元ABCC研究者アール・レイノルズ博士一家のヨット、フェニックスがエニウェトク環礁へホノルルから出発。広島大第二政経学部中退の三上仁一氏も参加
1958/6/13
ソ連が核実験停止のための専門家会議を7月1日からジュネーブで会期3、4週間開催に同意
1958/6/15
東京で日本平和委員会が呼びかけ「日本平和大会」。核武装阻止、民主主義擁護を掲げる(「平和運動20年運動史」)
1958/6/16
ワシントンとロンドンで日米、日英原子力協定調印。日英はプルトニウム処分権を日本側が持つとする
1958/6/16
日本原水協が衆院議員会館で「核武装と核実験停止を新国会に要求する請願大会」。広島、長崎の被爆者代表20人を含む30都道府県の代表80人をはじめ衆参両院議員15人、仏領アフリカのスーダン平和委員会代表が出席。6月20日から高知市出身の仏教徒、西本敦さんの広島-東京1,000キロ平和行進実施など決める
1958/6/16
英在郷軍人団体ブリティッシュ・リージョンのスワンシー支部が「昨年クリスマス島で行われた核実験の影響で工兵隊の1兵士が白血病のため死亡した」と発表。英政府は否定
1958/6/16
ソ連が日本政府に覚書。日本領土内に核兵器を持ち込んだ際の危険性について重ねて警告
1958/6/17
長崎市議会が、核兵器国内持ち込み反対を決議(「長崎年表」)
1958/6/18
マーシャル諸島民16人と広島の被爆者ら3人の日本人を含む20人がワシントンの連邦地裁に核実験即時中止と全面禁止を提訴。被告はマケルロイ国防長官、ストロース前原子力委員長ら。原告の日本人3人は原爆乙女の佐古美智子さん、広島市議会議員土岡喜代一氏、神奈川県漁船船長。20人は同様手続きをソ連にも実施
1958/6/19
仏領アフリカのスーダン平和委員会第1書記ディアバテ・ママドウ氏が被爆状況調査のため広島市入り。NATOがサハラ砂漠を核実験場に指定したため
1958/6/19
原水爆禁止広島市協議会(会長、渡辺広島市長)が市役所で開き、「前年まで原水禁広島協議会と原水爆禁止広島市協議会が主催で行っていた8・6大会を今年は市協議会が主体となって行う」ことを確認
1958/6/20
広島-東京平和行進の高知県出身西本敦さんが広島市の平和記念公園原爆慰霊碑前から「原爆を許すまじ」を歌いながら行進開始。「原水爆禁止・核武装阻止・民主主義擁護のための平和行進」。出発式では渡辺広島市長、森滝市郎原水禁広島協議会理事長、被爆者代表の吉川清氏が励ましのあいさつ、約100人が最初を共に歩く
1958/6/21
原爆症治療のためソ連に招かれた長崎県出身の永田尚子さんがモスクワに到着
1958/6/21
広島修道短大学友会が広島市内で第4回原水爆禁止世界大会の資金カンパと署名運動
1958/6/21
米ペンシルベニア大の教職員400人が国連に対し核兵器実験の禁止を要求する決議に署名し、アイゼンハワー大統領に送付と発表
1958/6/21
映画「千羽鶴」が完成し、広島市内で試写会。22日も
1958/6/21
金沢大で第3回北日本放射線影響調査研究者会議。東京教育大の三宅泰雄教授が「フォール・アウト(死の灰)は1955年に比べ57年末は約5倍」と発表
1958/6/24
国連信託統治理事会でソ連が太平洋の米信託統治領での核実験中止を勧告する決議案を提出
1958/6/25
ソ連の原爆症専門家トルトネフ教授が「原爆症治療でモスクワを訪れている長崎県出身の永田尚子さんののどは手術で治る」と語る。タス通信が報道
1958/6/25
核実験査察専門家会議開催でソ連が条件。「核実験禁止協定の締結を前提としない以上会議に参加できない」。米、ソ連の急変に驚く▽26日、米が「予定通り会議は開かれると考える」とソ連に覚書
1958/6/25
玉島市議会が非核武装、核実験即時中止などを決議
1958/6/26
米司法省がワシントンの連邦地裁に太平洋の米核実験を中止せよとの2つの訴訟を却下するよう要請。ライナス・ポーリング博士、賀川豊彦氏らの訴えとマーシャル諸島住民による訴訟の2件
1958/6/27
日本学術会議原子力問題委員会が「日米原子力協定に、米への『返還プルトニウムを平和利用に限定する』との条項がないのはわが国の原子力基本法の精神に反する」として政府追及を決める
1958/6/28
米政府原子力委員会が「エニウェトク環礁で核実験を実施」(現地時間29日)と発表。気象庁観測部が実験は過去最大の20メガトン以上の規模と発表。1954年3月1日のビキニ実験が10メガトン、過去最大は57年7月11日のエニウェトク実験で20メガトンと言われていた
1958/6/29
映画「千羽鶴」に出演した広島の子供約70人が集まって広島「折鶴の会」を結成、第1回集会を広島YMCAで開く。今後も日本中の子供に「折りづるを折って原水爆使用に抗議して」と訴える。故佐々木禎子さんの兄、雅弘さんらも加わる
1958/6/29
ドゴール仏大統領が英仏首脳会談で「仏も核兵器保有国になりたい」との希望表明
1958/6/--
広島市が西ドイツ・シュツットガルト市平和連盟主催の「原爆の恐怖巡回展」に被爆資料を出展へ
1958/6/--
「温泉療法は原爆障害者の自覚症状のないとき病気の悪化を予防する」。広島市水主町、同愛病院長の上村吉郎博士がまとめ広島医学8月号に発表へ

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