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ヒストリー

ヒロシマの記録1958 7月


1958/7/1
ジュネーブで核実験査察専門家会議始まる。米側フィスク代表ら25人、ソ連側フョードロフ代表ら21人。秘密会。西側は米、英、仏、カナダ、東側はソ連、ポーランド、チェコスロバキア、ルーマニア各代表が参加。前年夏のロンドンの国連軍縮小委員会が失敗して以来の東西顔合わせ
1958/7/1
ABCCの成人健康調査始まる(「目で見る原爆傷害調査委員会-放射線影響研究所40年」)
1958/7/1
米水爆実験抗議船フェニックスが立ち入り禁止区域内で米沿岸警備隊に拿捕され、アール・レイノルズ船長が逮捕される
1958/7/2
広島市議会が第4回原水爆禁止世界大会を支持する決議案を満場一致で採択
1958/7/2
政府が米に7月下旬に予定されているジョンストン島の核弾頭付きミサイル実験中止を申し入れ
1958/7/2
アイゼンハワー米大統領が原子力法改正案に署名。一定の回数の核実験を自ら行った同盟国との間で原子兵器生産に関する情報、資材の交換が可能に。核弾頭、核兵器そのものの交換は禁止
1958/7/3
原爆症治療のためモスクワを訪れている永田尚子さんの手術を実施。経過は順調
1958/7/5
ドゴール仏大統領とダレス米国務長官がパリで会談。ドゴール大統領が「原爆製造はフランスの使命であり権利。フランスはこれを実現する決意である」と言明。ダレス長官は原子力潜水艦の原子炉提供を申し出る
1958/7/6
広島県動員学徒犠牲者の会が広島市寺町の西本願寺広島別院で第2回動員学徒犠牲者合同法要。原爆犠牲の7,000柱と一般犠牲1,000柱のめい福を祈る
1958/7/7
英・オックスフォード市が原水爆を積んだ米機の市上空飛行を禁止する決議
1958/7/9
広島大理学部放射能研究室が9日朝の雨から1リットル当たり毎分2万7,000カウントの放射能を検出。1954年4月20日、広島大の測定開始以来最高
1958/7/10
広島「憩いの家」建設者の作家アイラ・モリス氏夫人のエディタさんから渡辺広島市長に便り。「6月27日にロンドンで開かれた原子戦争反対国際大会で広島市のメッセージなどを読み上げた。大会の模様を収めたテープを近く送る」
1958/7/11
長崎市が浦上天主堂の廃虚の一部を平和公園内に移し、原爆遺跡として保存へ(「長崎年表」)
1958/7/11
「お年玉つき年賀はがき寄付金」の配分先を定めた法律が改正公布。原爆被害者援助団体も対象に(「広島原爆医療史」)
1958/7/14
海上保安庁観測船拓洋が太平洋で1万9,000カウントの強い放射能気団に遭遇。僚船さつまとともに一時避難
1958/7/16
スウェーデン・ストックホルムで「軍縮と国際協力のための世界大会」。日本からは平野義太郎氏を団長に64人が参加。中国の郭沫若氏が演説。「侵略者はいつもサンタクロースに化けてやってくるが、彼らは口に平和を唱えながら戦争の車を押している」(「平和運動20年運動史」)
1958/7/17
岡山市原爆被害者の会が岡山市内で結成式。約30人が出席。同市在住の広島、長崎の被爆者は約400人。会長、田淵久岡山市長
1958/7/19
山口県被団協と日赤山口病院が5月31日に亡くなった金田春子さんの原爆症認定問題をめぐって交渉。日赤側は「診断に慎重を期していたためで放任していたのではない」と主張
1958/7/20
玉野市で被爆者が自殺。兵役中に広島で被爆、原爆症を苦にしていた
1958/7/21
西ドイツの世界的ピアニスト、ウイルヘルム・ケンプ氏が広島の原爆被災者のためにと約30万円を日本赤十字社を通じて贈る。4年前、広島の世界平和記念聖堂でバッハの賛美歌を演奏、LPに吹き込んだ印税
1958/7/21
広島、長崎の青年が中心になった長崎-広島-東京1,800キロの原水爆禁止全国青年自転車平和リレーが長崎市の平和祈念像前をスタート。長崎からの参加者は73人。田川務長崎市長から小箱に詰められた「爆心地の土」が自転車隊に手渡される
1958/7/22
海上保安庁の観測船拓洋、巡視船さつまの乗組員の間に白血球減少の症状。入港中のラバウルから連絡
1958/7/22
日本原子力産業会議がわが国初の原子力船は3,000~4,000トン級の海洋観測船と構想決める
1958/7/23
長崎原爆母親の会結成。山口美代子会長、40人(「長崎年表」)
1958/7/23
呉市が世界連邦都市を宣言。広島県内では広島、福山、尾道市、府中町に次ぐ
1958/7/23
広島県被団協が原爆を広島に投下したエノラ・ゲイの副操縦士ロバート・ルイス氏に招待状を発送。「原爆戦争を否定しテレビを通じて宣言された勇気に敬意を払う。併せて原爆乙女の救援に助力されたことを感謝し広島へ招きたい」
1958/7/24
ワシントン連邦地裁がバートランド・ラッセル卿、マーシャル諸島住民、日本人漁船員ら39人の米核実験禁止命令請求につて聴聞会の後、訴願を却下
1958/7/27
長崎-広島-東京全国青年自転車平和リレー隊が広島市平和記念公園に到着。大竹市、佐伯郡廿日市町の青年80人。広島自転車隊約100人にバトンタッチ
1958/7/28
広島県被団協から招待を受けた原爆投下機の副操縦士ロバート・ルイス氏が「広島へは行かない」。「報道によると私は原爆災害を遺憾に思っていることになっているが本当にそうだとは言えない。もちろん他人に不必要な災害を及ぼすことは望んでいない。原爆は普通の爆弾以上の破壊力を持っていることも知っている。しかし仕事をやり遂げなければならなかった。戦争を早く終わらせるためにだ。この気持ちはいまでも変わらない」
1958/7/28
広島市の山下博子さんが被爆後の1945年8月21日に後遺症のため抜け落ちた髪の毛を資料館に寄贈
1958/7/28
東京で開かれる第4回原水爆禁止世界大会準備委員会に出席のため来日中のセイロン平和委員会副委員長グナール・ダーナさんが広島入り
1958/7/29
広島を舞台とした日仏合作映画「ヒロシマ・モナムール」(24時間の情事)製作のためフランスのアラン・レネ監督が広島入り。当初の仮題は「ピカドン」。主演エマニュエル・リバ、岡田英次氏
1958/7/31
中国新聞コラムが「原爆白書がない!」と指摘
1958/7/31
ニューヨークで清水市から入荷したお茶に放射能が含まれているとのうわさが流れ荷揚げ禁止に▽8月19日、米食品薬品局が問題の日本茶からは人体に有害な放射能は検出されなかったと発表
1958/7/--
広島地方に7月中、記録破りの放射能雨。米の核実験の影響で水道水からも多量に検出
1958/7/--
「原爆症は治らない」-広島大心理学教室の久保良敏教授が被爆者の心理調査。広島県被団協の依頼。被爆者の原爆症に対する根強い不安が示される
1958/7/--
広島市原対課が別府市社団法人健康科学研究所の協力で被爆者の温泉治療希望者を募集
1958/7/--
広島県衛生部が原爆医療法で治療中の300人(広島市を除く)のカルテをもとに被爆者症状報告書の作成へ

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