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ヒストリー

ヒロシマの記録1956 5月


1956/5/1
広島市が1955年の被爆10周年に世界主要都市に送った平和宣言への返書など反響をまとめる。仏から88通、米、オーストラリア各17通など計238通(うち共産圏81通)と海外で大きな反響
1956/5/1
ABCCの副所長に中泉正徳博士が就任(「目で見る原爆傷害調査委員会-放射線影響研究所40年」)
1956/5/2
原水禁広島協議会が送った原水爆実験禁止要望書にアイゼンハワー米大統領から返書。「核実験は自身の防衛と自由世界の確立のため絶対に必要だと信じている。来るべき実験において米は危険を排除し、海洋貿易や漁業上の不便を最小限度にする努力を惜しまない」
1956/5/2
日赤が第19回赤十字国際会議(1957年10月、ニューデリー)で審議される「無差別戦争による危険から文民を保護する規約」原案に対し、修正意見を赤十字国際委員会本部に送付。「理由のいかんを問わず、今後最初に原子兵器を使用した国は人類の敵である」との宣言を提案
1956/5/3
長崎原爆青年会と長崎原爆乙女の会が統合し、長崎原爆青年乙女の会として発足(「長崎年表」)
1956/5/3
全国キリスト教学校広島大会が広島市上流川町の広島女学院で開催。4日、参加者約700人が原爆慰霊碑前で平和祈願し、市内を行進
1956/5/4
インドネシアのサルトノ下院議長が、下院で可決された原水爆実験禁止決議を国連に伝達。インドネシア近接およびアジア、アフリカ大陸での禁止を強調
1956/5/4
米がエニウェトク環礁で予定の核実験に抗議し、ウィスコンシン州マジソンのベティ・ボードマン夫人ら6人が断食を開始
1956/5/4
原水禁広島協議会が、乱立する原爆被害者団体を一本化し救援強化を図るため広島市役所で「被害者連絡協議会」第1回準備会を開催。8・6友の会など6団体が出席、全市的な組織化を進め、協議会結成を決定
1956/5/4
厚生省が放射能許容度について「国際基準の十分の一とする」と発表。原爆被害対策調査研究協議会(原爆協議会)特別委員会の答申に基づく
1956/5/5
米がエニウェトク環礁で本年度初の原爆実験を実施
1956/5/6
「8・6友の会」など広島市内の原爆被害者5団体の代表約20人が平和記念公園の原爆慰霊碑付近を清掃。毎月6日を「追悼の日」にした1回目
1956/5/6
原水禁広島協議会が米核実験に抗議の声明を発表、アイゼンハワー米大統領に抗議文を打電
1956/5/9
「世界平和アピール7人委員会」の原水爆実験禁止勧告に対し、イーデン英首相が回答。「原水爆または大量殺りく兵器の使用、貯蔵、製造を絶対禁止することを主張する方針だが、これは各国が同時に他の武器や軍隊を縮小する組織をつくり、そのタイムテーブルを協議して効果的な管理と統制の下になされるという理解が条件」
1956/5/9
渡米治療中の原爆乙女25人に付き添っている広島市の藤井正和医師から渡辺広島市長に手紙。「5月末に8人が帰国。7月中旬には速記、洋裁など修業中の3人を残し全員が引き揚げることになろう」
1956/5/9
総評が米英ソ3国に原水爆実験禁止要望の声明(「平和運動20年運動史年表」)
1956/5/10
原子力委員会が原子力研究所の設立委員に石坂泰三経団連会長ら20人を決定
1956/5/13
セイロンから広島市に贈られたセイロンアカシアを平和記念公園の原爆慰霊碑東側に植樹
1956/5/15
広島県婦人懇話会が渡米した大原広島県知事に託し、全米職業婦人連合会、在米広島県婦人会など米の婦人10団体に平和メッセージを送る。「真に全人類の幸福と平和のため、一層の親善を結ぶとともに、原爆乙女に対する好意に深い感謝をささげる」
1956/5/15
広島大理学部品川放射能研究室と広島地方気象台が本格的な放射能雨の汚染測定に向け第1回打ち合わせ会。(1)1,000カウント以上の放射能を記録した場合、中に含まれる放射性元素の種類、半減期を明らかにする(2)気象台が放射能雨受水器を購入、中央気象台の基準に基づいて雨を集める-などを決定
1956/5/16
英供給省が「オーストラリアのモンテベロ島で過去最も強力な原爆実験を行った」と発表
1956/5/17
ABCCが広島市内の居住者を除く広島県内の被爆生存者2万7,065人の名簿を原対協へ寄贈。国勢調査(1950年10月)に伴う広島、長崎の被爆生存者調査を総理府統計局が集計し、ABCCがマイクロフィルムに撮影した一部で、住所、氏名、性別を収めた5巻
1956/5/17
復興都市計画をめぐる広島県西部復興事務所の汚職事件の初公判で、同事務所課長ら8被告が起訴事実を認める。1949年4~55年3月ごろの間、換地補償金の水増しなどで詐取、横領した総額は523万円
1956/5/18
大阪商船がオーストラリアに向けて出港するしどにい丸の乗組員49人の白血球検査を実施。米水爆実験海域を通るためで、船には線量計も備える
1956/5/19
科学技術庁が発足。原子力局を中心に科学技術に関する総合行政を推進へ
1956/5/20
米ロサンゼルスの弁護士レオ・ギャラー氏がパリ滞在中のトルーマン前米大統領に「原爆による無用の殺りくは永久に歴史に残るであろう」と抗議。手紙の写しは6月15日、渡辺広島市長に届く
1956/5/20
広島アメリカ文化センターの招きで広島を訪れた太平洋地区米海兵隊ラッパ鼓隊(40人)が原爆慰霊碑前で野外演奏会
1956/5/21
日本原子力産業会議の第1回関西大会が大阪産経会館で開催、約1,000人が参加。関西産業界が原子力産業を育成するよう協力要請
1956/5/21
米がビキニ環礁で初の水爆空中投下実験。記者団15人も立ち会い。米原子力専門家が影響調査を開始。23日、アイゼンハワー大統領は記者会見で「今回の水爆は小型規模」
1956/5/21
原水禁広島協議会が米水爆実験で緊急理事会を開き、アイゼンハワー米大統領に抗議電報を打電。「われわれ広島市民がたびたび水爆実験に反対したにもかかわらず、5月21日ついにこれが行われたことに対し、憤慨を禁じ得ない。今後の実験を即時停止することを強く要望する」▽日本原水協事務総長の安井郁氏「これからは署名や抗議運動を背景に、具体的に内外の政治を動かしていかねばならない。禁止運動はそういう段階にきている」
1956/5/21
ビキニ環礁での米水爆実験直前に、危険区域内で日本漁船1隻が発見され、実験4時間前に脱出させた、と米第7合同機動部隊当局が発表。マグロ漁船第18宝幸丸で、31日、横須賀港検疫地に帰る。マグロや船員の放射能汚染は見られず
1956/5/21
全日本海員組合神戸地方支部が米水爆実験の直後、ビキニ海域付近を航行中の船舶に被災防止を打電。22日、4隻から返電、放射能被害はなし
1956/5/21
米ニューヨーク・ポスト紙のマックス・レルナー記者が米水爆実験に対し、原水爆が殺人兵器以外の何物でもないことを強調し、「東西双方とも狂気じみた水爆競争をやめよう」と呼び掛け。米各紙は実験をたたえる
1956/5/22
広島大理学部品川放射能研究室が第六管区海上保安本部(広島)の依頼で愛媛県伯方、因島市大浜崎の両灯台の飲用天水を測定。大浜崎の天水から1リットル当たり195カウント、ろ過天水から42カウント、伯方のろ過天水から23.5カウントの放射能を検出。厚生省の飲用水許容度22カウントを上回り、2度ろ過の飲用を指示
1956/5/22
中央気象台が「ビキニ米水爆実験によって生じた地震波と津波が観測された」と発表。同気象台が原水爆実験による顕著な地震波を観測したのは初めて
1956/5/23
英原子力公社が「コールダーホールに建設中の初の本格的な原子力発電所で第1号炉が運転開始」と発表
1956/5/24
米ニューヨークのマウント・サイナイ病院で治療中だった広島の原爆乙女、中林智子さんが整形外科手術中に心臓まひで死去。26歳。渡米治療の橋渡し、ノーマン・カズンズ氏も臨終に立ち会う。31日、ニューヨークの米フレンド奉仕団本部で追悼会
1956/5/26
広島原子力平和利用博覧会の開会式が平和記念公園の平和記念館(第2会場)で実施。原子力への理解を深める目的で、広島県、広島市、広島大、広島アメリカ文化センター、中国新聞社の主催。同記念館と原爆資料館(第1会場)に原子核連鎖反応や原子炉の模型、マジックハンドなどを展示。27日から6月17日までの22日間で計約10万9,500人が入場
1956/5/26
日東商船の貨物船長和丸がビキニ米水爆実験後の第1船として東京港に帰る。実験直後の22日、マリアナ諸島西側で最高毎分2,500カウントの放射能を公式に記録。入港後、船体から40~50カウントを検出
1956/5/27
広島県原爆被害者団体協議会(広島県被団協)の結成総会が広島市基町のYMCA講堂で開会。「原爆被害者の会」など広島県内各団体の代表約120人や長崎、愛媛代表が参加。乱立する団体の統一を図り、被害者救援と原水禁運動の推進が目的。代表委員に藤居平一、井上昇、日野義隆氏の3人を選任。(1)政府の1957年度予算に国家補償費を計上するよう厚生省に働き掛ける(2)57年度は原爆被害者援護法を必ず成立させる-などを申し合わせ
1956/5/27
広島市写真材料商組合が原爆ドームで夜間撮影会。せん光電球1万個でドームが夜空に浮く
1956/5/28
再発足後初の原対協の理事会で、会長に渡辺広島市長を選出。1956年度予算1,943万円と事業計画として(1)精密検査の継続(2)被爆者の調査・検査(3)被爆者の健康指導(4)原爆症の研究-などを決める
1956/5/28
中央気象台と各地測候所の微圧計が早朝、顕著な気圧波異常振動を記録。21日のビキニ水爆実験時の形と酷似。同気象台は「28日午前2時56分、ビキニ付近で水爆実験が行われた」と判定し、発表。東大地震研究所の松沢武雄教授も地震波の比較から「水爆の空中爆発」と推定。米政府原子力委員会は明言避ける
1956/5/29
米が28日にビキニ海域で行ったとみられる未発表の水爆実験に対する日本国内の不安や騒ぎについて、米国内の新聞各紙は冷淡に報道。「放射能ノイローゼ」との決めつけも。ニューヨーク・ポスト紙だけは「米国が太平洋で実験をする度に、水爆の音と同じくらい大きな音でそのニュースは世界に広がっていく」と政府に批判的
1956/5/29
原爆乙女の留守家庭懇談会が広島市役所で開かれ、渡米治療中の中林智子さんの死去に関し、米のノーマン・カズンズ氏に「この偉大な事業が不幸な出来事のために中途で挫折しないよう祈る」と打電。31日には渡辺広島市長も「乙女の親は動揺していない。従前通り事業が続けられることを望んでいる」との手紙を送る
1956/5/29
英ビッカース社のウィークス会長が同社年次総会で「近く原子力艦艇の建造に着手」と発表
1956/5/30
第3回世界連邦平和都市連絡協議会が広島市立浅野図書館で開会。平和確立のため市町村が世界連邦平和都市宣言を決議する運動
1956/5/31
衆院予算委員会で今澄勇氏(社会)がビキニ水爆実験(1954年)に対する米の慰謝料200万ドル(7億2,000万円)の行方に「不正があるのでは」と追及。慰謝料が船主から船員に渡っていない未払いが全国で約340件。今澄氏「日本カツオ、マグロ漁連本部が慰謝料から約2,600万円を政界への政治資金に流した疑いもある」と追及
1956/5/--
原対協が治療実績を発表。被爆生存者は国勢調査(1950年)によると16万1,179人(うち広島市在住9万8,102人)▽53年8月~55年末に行った精密検査は合同診察会27回など総数2,788人▽55年12月、厚生省の依頼で実施した被爆者調査は調査票9万人、回収3万4,963人,うち1万7,346人が何らかの異常を訴え。8,633人が治療希望。治療承認患者は55年11月末で1,400人、うち原爆症による死亡は骨髄性白血病21人、再生不良性貧血10人など38人
1956/5/--
三重大理学部解剖学教室の三上美樹教授が放射能雨を使った熱帯魚、ガマの発育遺伝影響研究をまとめる。「強い放射能を受けた場合は死亡し、弱い場合でもふ化して奇形になるものが多い」。日本学術振興会から英文出版される「核爆発実験による影響調査報告書」に収録
1956/5/--
広島原子力平和利用博覧会の主催者の1つ、広島アメリカ文化センターが原子力利用の映画11種類を学校や文化団体に貸し出し

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