×

ヒストリー

ヒロシマの記録1956 6月


1956/6/1
広島大理学部の梅垣嘉治教授に通産省ウラン調査員の異動が発令。ウラン資源開発へ
1956/6/2
広島大文学部平和と民主教育擁護委員会が原水爆実験、教育3法などに反対する抗議集会を同付属小で開会。学生約800人が参加
1956/6/2
米連邦基準局のテーラー博士が、放射線許容水準を三分の一にした新許容基準の必要性を語る。国際放射線保護委員会が採択した勧告内容と同じで、人体が60歳までに受ける放射線の最大許容量を200レントゲンと規定
1956/6/2
ビキニ水爆実験の慰謝料問題で衆院議院運営委員会が日本カツオ、マグロ漁連本部の小出勲男常務理事、寺本正市ビキニ対策常任委員長を証人喚問。3日も同漁連参事ら2人から事情を聴いたが、「政界への不正は認められず」と審議打ち切りを決定
1956/6/3
日本人類遺伝学会第1回総会(慶応大医学部)2日目、長崎大医学部の岡本直正講師が「原爆放射能で障害児が生まれる」と報告。1949年9月から4年4カ月、長崎ABCCと協力して行った研究。被爆者の死産胎児と生後1カ月以内に死亡した新生児計497体のうち、障害児が92体(18.5%)の高率を示す。障害児の生存は短く、胎内死亡50体、生後1日以内10体、同1カ月以内4体
1956/6/4
フィリピンから大阪に入港した三菱海運の貨物船秋浦丸から最高200カウントの放射能を検出。全日本海員組合が大阪市立大に同船の精密検査を依頼
1956/6/6
原爆被害者治療費の全額国庫負担など援護法の制定陳情に上京した広島県被団協の藤居平一事務局長ら4人が広島に帰り語る。「原爆治療費は1956年度2,580万円を57年度は倍増計上し、広島、長崎以外の障害者にも適用する意向だった」
1956/6/6
広島県被団協が拡大常任委員会で原爆被害者援護法の促進運動などを協議。(1)被害者の会を各郡市単位につくる(2)広島に援護法の促進機関をつくる(3)県内の自治体に援護法促進決議を頼む(4)8月6日までに援護法制定の見通しをつけ、第2回原水禁世界大会で決定的な線を出す-などを決める
1956/6/9
米最初の原爆生産の総指揮に当たったロバート・オッペンハイマー博士(プリンストン高等理論物理学研究所長)がペンシルベニア州で演説。「広島、長崎に原爆投下を決定した時、米国の指導者たちは巻き込まれていた戦争の恐ろしさゆえに、分別を失ったのである」
1956/6/9
原対協の医学部会(都築正男部会長)が放射線障害の健康診断基準をまとめ、厚生省に報告。日本医学放射線学会放射線障害予防・補償委員会が1953年12月に出した「放射性物質による障害予防勧告」を基準に作成
1956/6/11
米政府原子力委員会が太平洋地域で実施中の原水爆実験について述べる。「一連の実験では個々の爆発について発表も説明も行わないが、現在のところ実験は順調。…規定された安全基準を厳密に守っている。天候状況が絶対に安全だと判断されない限り、決して爆発を行わない。今度の爆発は大体において1954年の実験よりも小規模」
1956/6/11
ビキニ海域で調査中の科学調査船俊鶻丸が危険水域西北端から約50キロ付近で、米軍警戒機に「危険水域から離れろ」と警告を受ける
1956/6/12
原水禁広島協議会が拡大理事会で、広島、長崎の原爆死亡者把握のため原爆被害者実態調査の実施を決定
1956/6/12
日本向けモスクワ放送が原爆投下について放送。「広島、長崎両市に原爆を投下する軍事的必要は少しもなかった。それなのに米は原爆を諸国民に対する政治的恐喝手段として利用した。ソ連は当時、米に対し原子兵器を使用しないよう提案したが、米はこれを拒否した」。投下時の米大統領トルーマン氏は「デタラメだ。スターリン元首相は、新兵器を使うべきだとの点でチャーチル前英首相および私と完全に意見が一致していた」と反論
1956/6/12
米科学アカデミーの専門機関である全米学術会議が放射能の生物学的影響について1年間の研究調査を中間報告。(1)自然放射能の量を超えた放射能の量制限(2)原子力産業が発達した際の放射性廃棄物の危険性-などを指摘。「国際機関が速やかに放射性物質の駆逐処理のための安全基準を設けるよう」勧告
1956/6/12
英政府医学調査委員会が放射能の人体に与える影響に関する報告書を発表。その中で「日本に投下された原爆は爆発力が大きくなるよう設計され、爆発力が最大の効果を上げるに十分な高度で爆発した。爆発が高所で行われたため死の灰は希薄であった」と指摘
1956/6/12
米ニューヨークのマウント・サイナイ病院副院長のヒッチグ博士から広島逓信病院の蜂谷道彦院長に、手術中亡くなった原爆乙女、中林智子さんの詳しい死亡模様をつづった手紙が届く
1956/6/13
広島市の宇品地区原爆被害者の会が8月6日に弔旗を掲揚する請願書を広島市議会に提出。当日は市営競輪などを自粛する市条例の制定も訴える
1956/6/13
中国電力の前身「広島電気」元役職者でつくる親交会が戦災供養塔へ相輪1基、石灯ろう1対を寄付。この日、着工。工費35万円
1956/6/14
米ニューヨーク訪問中の大原博夫広島県知事がマウント・サイナイ病院に原爆乙女を見舞う
1956/6/15
日本原子力研究所が特殊法人として新発足。新理事長に安川第五郎氏が就任。政府と民間から計4億7,460万円を出資
1956/6/15
ホノルル・スター・ブレティン紙が、5月21日のビキニ米水爆空中投下実験は目標から11キロ外れ、核爆発のせん光で関係者2人が失明した、と実験要員技術者の証言を報じる。「実験当日、目標に選ばれたナム島には明々と照明が輝いていた。しかし水爆は命中しなかった。目標から外れた結果、多くの重要な測定装置が破壊された」
1956/6/16
クォールズ米空軍長官が声明を発表し、ビキニ水爆実験での投下ミスを認める。「水爆は標的のナム島を4マイル(約6.4キロ)外れて破裂し、観測施設が損害を受けた。これは投下装置操作の誤り。誤差は予想より大きかったが、実験に重大な影響を与えるものではなかった」。AP通信によると、米空軍広報官は「標的誤差は2マイルで、搭乗員のミス」。米政府原子力委員会は「失明者はいない」と否定
1956/6/17
広島の原爆乙女25人のうち第1陣9人と手術中死亡(5月24日)した中林智子さんの遺骨が、米軍用輸送機で1年1カ月ぶりに羽田に帰国。岩国空港を経て広島に帰る
1956/6/17
治療中に死亡した原爆乙女、中林智子さんの両親にノーマン・カズンズ氏から死を悼む手紙が届く
1956/6/17
被爆児童、生徒の健康管理のため、原対協と広島市が精密検査を開始。1学期分として白島小学校など9校を対象に、血液、尿、栄養状態などを検査。その結果、対象619人中、血液再検査25人(4%)、外傷75人(12%)で、機能障害など重症者はなし
1956/6/18
米のノーマン・カズンズ氏がニューヨークで、「今後の原爆乙女の手術はすべて日本で行われる。他の患者を米に呼び寄せる計画はない。われわれの援助委員会は日本の外科医師団と密接に協力するつもりであり、手術費用は米国内で調達するよう努力する」
1956/6/19
遺骨で帰国した原爆乙女、中林智子さんのミサが広島市幟町の世界平和記念聖堂で
1956/6/19
原爆孤児の崎水流郁子さん(広島市戦災児育成所)が、養母のハワイ・ヒロ市の洋品店経営、崎水流ラクさん(鹿児島県出身)のもとへ羽田を出発
1956/6/19
英供給省が「19日朝、オーストラリア西北のモンテベロ島で今春2回目の原爆実験を行い、成功した。同島における一連の実験は終了」と発表
1956/6/19
米週刊誌ニューズ・ウィークがビキニ米水爆実験(1954年)の放射能禍を報じた、と共同通信が伝える。同誌によると、実験で放射能にさらされたマーシャル諸島の46歳の男性1人が5月13日に心臓病で急死。体内器官や骨の一部がブルックヘブン国立研究所に送られた。実験地域外のロンゲラップ島では、住民に皮膚障害、白血球数の減少などが発生
1956/6/19
国連太平洋信託統治地域視察団が報告書を発表。「米政府は実験場から立ち退かせたビキニ旧住民に地代を払っていないが、速やかに解決すべき」。報告書によると、原水爆実験に関連し米政府が立ち退かせたマーシャル諸島の住民数はビキニ167人、ロンゲラップ島175人ら計636人。ロンゲラップ島民の死者はなしと報告
1956/6/20
米原子力問題専門家ラルフ・ラップ博士がミドルエセックス医学会で演説。「原水爆実験が継続されれば6年後の1962年には地球上の放射性ストロンチウムの影響は恐るべき程度に達するだろう」
1956/6/20
オーストラリアのビール供給相がモンテベロ島での英原爆実験(19日)に関し「放射能雲の一部がオーストラリア本土に浮流してきた。しかし高空であるため被害はないはず」と発表。同国民間航空当局は旅客機1機に待機を指令
1956/6/21
島根大文理学部物理学教室が20日夜から21日朝にかけて松江市内に降った雨から1リットル当たり毎分10万カウントの放射能を検出。広島大理学部品川放射能研究室も20日夕に広島地方に降った雨から1万414カウントを検出。広島では過去2年間で3月23日(9,520カウント)を超し、最高を記録
1956/6/21
ハマーショルド国連事務総長が、立教大の物理学者、田島英三博士を「放射能の人体に及ぼす影響に関する国連科学委員会」専属の科学秘書に任命
1956/6/21
第2回原水爆禁止世界大会長崎実行委員会の発会式が行われる。会長は杉本亀吉市議(「長崎年表」)
1956/6/22
広島大文学部学生自治会が定期大会で(1)原水爆実験禁止、軍縮大国協定を要求する署名運動(2)8月6日を中心に広島で学生平和会議を開く-などの活動方針を決定
1956/6/22
原水禁広島協議会が、原水爆実験禁止の懇請電報を送った米民主党大統領候補アドレイ・スチブンソン氏から返書。「もはや平和への悲願について単なる論議はやめる時期が到来している」。ス氏は水爆実験中止を提唱
1956/6/22
米シアトルで開会のバプテスト教会大会が、米水爆実験中止を求める決議を採択
1956/6/23
仏のパリで世界平和評議会理事会が開会。25日まで討議、「原水爆実験即時中止の協定を結べ」との声明文を採択し、米英ソ3国政府に発送
1956/6/23
長崎原爆被災者協議会(長崎原爆被災協)が結成され、長崎市の被爆者が一つにまとまる。代表委員に小林ヒロ、杉本亀吉、小佐々八郎氏ら10人(「長崎年表」)
1956/6/24
広島市広瀬学区郷友会が広瀬神社境内に戦没者、原爆犠牲者847柱を合祭する表忠碑を建立し、遺家族ら約500人が慰霊祭
1956/6/25
原水爆患者の治療活動を進める原水爆禁止山口県協議会の推薦第1号として、徳山地方養老院の64歳の男性被爆者(広島市出身)が同県立防府中央病院に入院
1956/6/25
全国市長会総会などで上京の渡辺広島市長が広島に帰り、「市長会で原子力の国際管理と軍事使用禁止を決議し、政府と国会に申し入れた」と語る
1956/6/26
日本各地の気象台、測候所が26日午前6時から同7時ごろの間に異常微気圧振動を観測。5月21日、同28日の観測とほぼ同一の型。中央気象台は「振動の発生場所は日本の南東約3,700キロ(東京-ビキニ間は3,724キロ)、爆発時刻は午前3時(日本時間)ごろと推定」と発表
1956/6/26
原爆乙女の会「シオン会」が、原爆ドキュメント映画「生きていてよかった」(亀井文夫監督)のフィルムを平和愛好者のチャップリンに贈ることを決定。資金募金を開始へ
1956/6/26
オーストラリアのニューカッスル港で荷役中の貨物船宮島丸の船員が「同国北部沖を通過した22日、6,000カウントの放射能スコールを浴びた」と語る。七条船長「英が原爆実験を行った3日後」
1956/6/28
原爆ドキュメント映画「生きていてよかった」の有料試写会が広島市公会堂で開会。原水禁広島協議会と広島県被団協が被害者救援資金集めのため計画
1956/6/28
米の民間会社24社が使用する最初の研究用原子炉がシカゴのイリノイ工科大付属アーマー研究所で操業開始
1956/6/29
原対協が理事会で組織強化を協議。研究治療、企画、資金の3部会の設置を決定。研究治療部会は官公立、民間病院の医師65人に委嘱し治療活動を実施
1956/6/30
原水禁広島協議会の被害者救援委員会が広島市内の原爆被害者実態調査を開始。広島大教授の協力で、原対協の被害者名簿(約3万5,000人)から無作為抽出した1,000人を対象に、健康、就職、結婚問題など40項目を調査。8月6日に「被害者白書」作成へ
1956/6/30
ビキニ海域で米水爆実験の放射能調査をした科学調査船俊鶻丸が東京港竹芝桟橋に帰る。調査団は「ビキニ付近のマグロの放射能は一昨年同様に強いとみられ、実験終了後の再調査とマグロの市場検査の必要がある」など調査結果を発表
1956/6/--
中国新聞社の第3回新人登壇文芸作品懸賞募集で当選5作品のうち3編が原爆をテーマ。広島の文学が原爆と密接につながっていることを示す
1956/6/--
政府の諮問を受け国立放射線医学総合研究所の構想を協議していた日本学術会議特別委員会が機構案をまとめる。12部、27室、2付属施設で物理、化学、生物、遺伝など軸に放射線研究。政府に答申へ

年別アーカイブ