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ヒストリー

ヒロシマの記録1956 9月


1956/9/1
日本被団協が原爆被害者援護法の原案作成について意見を求めるため、全国15都県の被団協と各地の原水禁団体に書状を発送
1956/9/3
米政府原子力委員会が「ソ連は2日にシベリアで第3回の核実験を行った」と発表
1956/9/3
広島市社会福祉協議会が理事会で、原爆被害者援護法立法化を推進するため、被害者救援対策特別委員会を設けることを申し合わせ
1956/9/4
広島市社会福祉協議会と広島県被団協が共同で援護法案政府提案を要望決議(「広島原爆医療史」)
1956/9/4
原対協が治療部会を開き、治療・調査方針を決める。(1)原爆症患者の治療意欲を高めるため積極的な生活援助を関係当局に働き掛ける(2)広島県内の全市町村単位で被爆者調査を実施し、未承認の要治療者の発見に努めるよう各市町村に依頼
1956/9/5
在日米大使館文化交換局次長アーサー・ハムメル氏が中国新聞社を訪れ、広島原子力平和利用博覧会について「成功を高く評価しているが、これは広島の人々が原子力の将来に目を向けているため」と語る
1956/9/6
国際遺伝学会議が東大安田講堂で開会式。米英ソなど海外19カ国100人と国内450人の学者が参加、12日まで。放射能の影響など150の研究論文を発表。京都での閉会式で、英ロンドンのホールデン教授が人類のため放射線の遺伝的障害研究の必要性を強調
1956/9/7
原対協が、東京で開いた「原爆被害対策に関する調査研究協議会」で、1955年度と56年8月末までの障害者精密検査と治療実績を発表。56年4~8月に検査を受けた原爆障害者878人のうち白血球異常97人、赤血球異常31人と血液異常が多い-など
1956/9/8
国際遺伝学会議の3日目、元広島ABCC勤務のシュール博士(米)が、「広島、長崎の原爆が出生に及ぼした影響」と題して講演。1946~53年間の広島3万7,623人、長崎3万7,342人の計7万4,965人について障害の増加割合、死産や新生児の死亡数などを調査。その結果、「遺伝的に放射能の影響を受けていると言うに足る証明はできなかった」と影響を否定
1956/9/8
広島市社会福祉協議会が初の原爆被害者救援対策特別委員会。原爆被害者援護法の要綱を作成し、長崎市社福協の案と一本化して、全国社福協の支持を求めることを決定
1956/9/9
原子力調査視察団(有田喜一団長=自民)一行12人が渡米。国会議員は6人。米政府の招きで3週間、同国各地の原子力施設を視察
1956/9/10
奈良県吉野郡四郷村の栩山東芳氏が、原爆犠牲者の供養に経文1,000文字を刻んだ中国産の石版を広島市に寄贈
1956/9/10
米ニューヨークの友和会本部が、アイゼンハワー米大統領とブルガーニン・ソ連首相に送った原水爆実験禁止を訴える手紙と電報の内容、渡辺広島市長に届く
1956/9/10
広島県被団協が、広島県に(1)援護運動の推進(2)被害者手帳の交付(3)精密検査の早期実施-など6項目の申し入れ
1956/9/11
渡米治療を終えた原爆乙女の帰国に合わせ、広島市が米のノーマン・カズンズ氏やマウント・サイナイ病院の医師ら6人に招待状を発送
1956/9/11
広島原爆病院の開院式に出席した宮本武夫郵政事務次官が、「長崎にも今年と来年のお年玉つき年賀はがきの益金で原爆病院を建てる」
1956/9/11
広島原爆病院が開院式。広島赤十字病院の構内に鉄筋3階建てで完成。日赤名誉副総裁の秩父宮妃も出席。内科、外科、皮膚泌尿器科、レントゲン科の4科、120床。お年玉つき年賀はがきの益金分配金6,500万円で8月着工。院長は重藤文夫広島赤十字病院長が兼務。20日、診療を開始。開設当初の専任職員は医師2人、看護婦6人など計13人
1956/9/17
日本被団協の藤居平一事務局長らが、広島県庁に原爆被害者の援護問題について(1)早急な被害者の実態把握と政府予算措置の要請(2)被害者健康手帳の発行-などを要望
1956/9/17
日本原子力産業会議の欧米原子力産業視察団(大屋敦団長)22人が出発。長尾節造中国電力副社長も参加。11月23日帰国
1956/9/18
ABCCが広島大に医学専門書336冊を寄贈。4月24日(176冊)に次ぎ2回目
1956/9/20
国際原子力機関(IAEA)の設立総会が、米ニューヨークの国連本部で81カ国代表が参加して開会。5週間の予定で原子力機関の規約を審議。日本の加瀬俊一代表は26日、規約草案の無修正支持を表明
1956/9/20
広島市が世界の主要都市に送った被爆11周年の平和宣言に対し、米シアトル市のフロイド・シュモー氏から渡辺広島市長に返書。「市民がよりよい都市を建設し、平和の模範を世界に示すよう祈る」 1956/9/21
広島県賀茂郡志和町、農業松田吾作氏が原爆症のため広島市民病院で死去した、と原対協に連絡が入る。死去は15日、悪性リンパ肉腫。この年15人目の原爆犠牲者
1956/9/21
「原爆の子の像」の建設委員会が、像の建設地を平和記念公園内に決定
1956/9/22
来日中の米牧師ハロルド・ギャンプリン氏が米のヒロシマ・ピース・センター協力会主事マービン・グリーン氏から託された精神養子への資金1,275ドル(45万9,000円)を渡辺広島市長に届ける
1956/9/22
日本原水協が、8月下旬からのソ連の無警告核実験に対し、ブルガーニン首相あてに抗議文を送付。「日本原水協はいかなる国による原水爆実験にも反対している。ブ首相が第2回原水禁世界大会に寄せたメッセージは、大きな信頼を巻き起こした。しかるに大会2週間を経ずして無警告実験を行ったことは、日本国民に深い失望と憤りを与えた。速やかに実験を中止し、米英両国と実験禁止を協定する交渉を開かれるよう要望する」
1956/9/22
ABCCが、1955年から病理検査を受けた原爆被災物故市民235人の追悼法要を西本願寺広島別院で営む
1956/9/24
広島市が発送した被爆11周年の平和宣言にこたえ、米シアトルのクリントン市長から広島市に返書。25日にはロサンゼルスのパウルソン市長も
1956/9/25
原子力委員会と関係各機関が、関西に動力炉を建設するための敷地調査委員会を設置
1956/9/25
ロスチャイルド米商務次官が「米政府は原子力貨客船の建造着手を決めた」と語る
1956/9/25
西ドイツ・デュッセルドルフ市のゲーリー・ミュラー氏から渡辺広島市長に「原子兵器追放の世界連盟がつくられる。広島の意思表示がほしい」と要請文
1956/9/27
モードリング英供給相が「オーストラリア南部マラリンガ砂漠での原爆実験第1回は27日午後、成功のうちに行われた」と発表
1956/9/28
広島市が送った平和宣言に、米ハワイ・ホノルル市のブレイスデル市長から渡辺市長に返書
1956/9/28
広島平和記念都市建設事業東部・西部復興土地区画整理審議会が設置される(「広島新史・年表編」)
1956/9/28
奈良県天理市議会が「世界連邦都市宣言」宗教文化都市として平和貢献を目指す。全国7番目
1956/9/--
被爆児童、生徒の健康管理のため、原対協が実施する精密検査の2学期分が小学校17校、中学校11校(計約1,670人)で22日から開始へ
1956/9/--
科学技術庁原子力局が国立予防衛生研究所、日本原子力研究所などと協力し、1957年春から全国で自然放射能検査を実施へ。東京や原研のできる茨城県東海村、ウラン鉱の出る倉5H市小鴨などを初年度に検査
1956/9/--
気象庁観測部が「最近、空気中のチリの放射能が高くなり、一時は最大許容度にごく近い数字を示した」と観測データを発表
1956/9/--
原爆ドキュメント映画「生きていてよかった」の上映運動が全国に広がる。日本原水協の調べで9月までに425カ所(「平和運動20年運動史」)
1956/9/--
日本被団協が原対協医師らと原爆被害者援護の社会党私案の検討を重ね、上旬に「原爆被害者援護法案要綱」を作成(「広島新史・歴史編」)

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