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ヒストリー

ヒロシマの記録1953 4月


1953/4/1
「原爆文学」論争に関連し広島大東雲分校の学生・永井昭三氏が中国新聞夕刊に「原爆文学と被害者」を寄稿
1953/4/2
広島市が原爆犠牲者の霊を慰めるため大阪から取り寄せたボダイジュ3本を平和記念公園に記念植樹
1953/4/2
新劇作家の大沢幹夫氏(広島高師卒)が原爆被害者の実態を脚本化するため広島市の土谷眼科で取材
1953/4/4
広島市戦災児育成所の原爆孤児の少年僧2人が竜谷大学に合格、特別奨学生に
1953/4/4
原爆障害者救済運動として広島市江波青年会が江波町内の海宝寺で募金演芸会を開催
1953/4/7
ノーマン・カズンズ氏が著書「WHOSPEAKSFORMAN?」を浜井広島市長に寄贈。著者が見学した原爆製造地、ビキニ環礁実験などの様子も収録
1953/4/8
ニューヨーク・タイムズのローレンス特派員が原子力の民間開放について報じる。「米政府原子力委員会は原子力生産に必要な核分裂物質の所有、研究について米政府の持つ独占権を廃止するよう議会に勧告するだろう」(4・10夕)
1953/4/8
ABCCの人類学者レイノルズ博士が「1952年度の成長、発育の資料に関する報告」を発表。被爆児と原爆に遭わなかった子供4,000人対象の研究。「骨、筋肉、脂肪の成長発育をエックス線で調べると、被爆児が骨、筋肉、脂肪の厚さでわずかに劣るが、被爆児の成長がだんだん早くなり普通児に追いつくのではないか」
1953/4/11
長崎市議会から広島市議会に贈られたソテツを平和記念公園に植樹
1953/4/12
米政府原子力委員会は「米国の民間商社2社が原子炉建設方法の研究に従事することになった」と発表。原子力を一般工業に利用できる時期を測るため1年間研究
1953/4/13
第三次世界大戦で米が原爆攻撃にさらされた仮想を描く米コロンビア社の映画「原爆下のアメリカ」を中国新聞夕刊が紹介
1953/4/14
米下院軍事委員会のジョンソン議員が米航空記者協会で講演。「欧州、朝鮮には既に原爆および原爆搭載機が配置されている。私は朝鮮の米軍が原爆を持っていると思う」
1953/4/14
爆心地の元産業奨励館のドーム下から化石状のせっけんを発掘。縦4センチ、横7センチ、厚さ1.5センチ、表に「戦時石DV」と刻まれる
1953/4/15
原対協が米治療班派遣を機に原爆障害者の要治療者調査と治療対策現況を発表。3月上旬に外科手術で職業能力が増強できると認められた32人が逐次入院。現在、入院加療中8人、退院後通院中4人
1953/4/15
原爆障害者に対する米治療班派遣のための調査医2人が広島入り。米外科医学界の権威ラブティン・ペンシルベニア大教授とキャスバーグ元セントルイス大教授の2人。派遣の参考に原爆障害者8人を診察、治療対策の現況も聴取
1953/4/16
アイゼンハワー米大統領が米新聞編集者協会大会で演説。マレンコフ・ソ連新政権に対し「原子戦争の可能性を回避するためスターリンの冷戦政策を変更し、世界恒久平和のために自由諸国と協力するよう」要請。平和攻勢の主導権を奪回しようとしたもの、と米国務省筋
1953/4/17
「原爆の子」をもとにした日教組製作の映画「ひろしま」の監督関川秀雄、製作者伊藤武郎氏らが広島市を訪問。似島学園などをロケハン。8月6日封切りを目指す
1953/4/17
左派社会党がアイゼンハワー米大統領、マレンコフ・ソ連首相、毛沢東・中国主席、ネール・インド首相、チャーチル英首相に世界平和の確立を要請する書簡を送ることを決定
1953/4/17
「原爆文学」論争で中国新聞が「『原爆文学』の行手を探る」座談会。19日まで3回、夕刊で内容を掲載。出席者は作家の阿川弘之、広島文学同人の稲田美穂子、広島原爆の文学研究会同人の小久保均、作家の斎木寿夫、広島大助教授の真川淳、女人芸術同人の志條みよ子、広島中央百貨店取締役の筒井重夫の7氏
1953/4/18
米ネバダで今春6回目の原爆実験。海兵隊2,200人が参加
1953/4/21
西ドイツから贈られた「平和の鐘」4個を広島平和記念聖堂の鐘楼に取り付け
1953/4/21
阪大病院で入院治療を受けていた広島の原爆乙女4人のうち2人が退院。退院後も同病院で他の2人の看護へ
1953/4/23
日本学術会議が第14回総会で「日本最大のサイクロトロンを持つ原子核研究所の設置」を決議。特別予算措置を政府に申し入れへ
1953/4/23
パキスタン駐日大使ミアン・デイン氏が広島市を訪問。「復興ぶりには驚嘆のほかない。市民の意欲に敬服」
1953/4/23
米がネバダ州のユッカ平原で原子爆発実験
1953/4/24
緒方竹虎副総理が広島市を訪問、慰霊碑に合掌。「世界初の原爆惨劇都市である以上、将来広島を平和的に建設していくうえに、われわれとしても十分に報いたい気持ちでいっぱいだ」
1953/4/27
広島と長崎の原爆乙女が長崎市で初の交歓会を開催、28日まで
1953/4/27
国際戦争レジスタンス運動会員の西ドイツ青年ハンス・ドボアー氏が広島市を訪問。「ハンブルクにある平和記念堂の中に『ノーモア・ヒロシマズ』と刻んだ石碑が建てられている。8月6日には西ドイツの平和を願う人たちが集まって記念会合を持っている」
1953/4/28
広島県安佐郡伴村の生活研究婦人会が義勇隊、学徒動員などで犠牲になった同村出身者70人の慰霊のため平和記念公園に植樹
1953/4/29
カンヌ国際映画祭でグランプリ候補だった「原爆の子」(新藤兼人監督)が受賞を逸す。グランプリはフランス映画「恐怖の報酬」
1953/4/--
西ドイツ・デュッセルドルフ市自然科学技術協会から原爆死者数、影響力など詳細な基礎資料提供の要請状が広島市に届く
1953/4/--
延期されていた国際医師会議が5月下旬にオーストリアのウィーンで開会される、と同会議日本準備会に通知。「原爆症を世界に紹介する機会」と準備会は代表に草野信男博士を内定
1953/4/--
ABCCの眼科医ロバート・シンスキー博士が2年間の研究の第1回報告。「広島の被爆生存者の場合、眼球水晶体は放射線によって白内障を生ずるほどの障害を受けるかもしれないが、失明にいたるほどの大きな水晶体障害を受ける率は少ない」

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