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ヒストリー

ヒロシマの記録1952 6月


1952/6/3
イサム・ノグチ氏が「欄干」を設計した平和大橋、西平和大橋の完工式。特異な欄干は平和と再建を象徴。1950年11月2日着工、総工費1億1,000万円
1952/6/5
文芸春秋6月臨時増刊号「アメリカから得たもの・失ったもの」に元ロンドン・タイムズ東京特派員オーナー・トレイシー女史が「日本の悲劇・アメリカの悲劇」と題し寄稿(「原爆被災資料総目録・第4集」)。「この市には不思議な自尊心がおういつしていた。市長から新聞売り子に至るまで、いずれも広島市民であることに全幅の光栄を感じ、かつ自慢しているのであった。…彼らは今、広島を文化と平和のセンターと化して世界の隅々からやってくる聖地参奉者やとくに現ナマを手提げ袋にでもいれてたくさんもってきてくれるようなお客の目を引こうとしているのだ。…あれはまったく恐ろしい爆弾だった。野蛮人どもがあんな爆弾を作ることができたのに、日本人が作れなかったのは何て奇妙なことだろう。いつかはわれわれもあんな爆弾を、おそらくはもっと安価に作れるようになりたいものだ。だが、それまでここ暫くの間は平和のために祈ろう。しかし、野蛮人どもがわれわれの市をこんなに途方もなく騒ぎ立てるのなら、よろしい、我々も助演してやろう。東洋人の精神の神秘さはだれが見抜けるものか。ともかくわれわれはうまい儲け仕事にぶつかったらしい」
1952/6/5
映画「原爆の子」広島ロケ。西本願寺広島別院付属幼稚園でクランクイン
1952/6/6
佐久間澄広島大教授ら提唱の広島平和問題談話会が破壊活動防止法で声明。「(同法が)学問、思想、言論および結社の自由を圧迫し平和の脅威となるものと認め、これに反対する」
1952/6/9
作家真杉静江さん、芹沢光治良氏らの計らいで川崎景子さんら原爆乙女9人と原爆1号吉川清さんらが東京へ着く。10日、東大付属病院小石川分院外科で治療受ける。原爆乙女は広島流川教会谷本清牧師の指導で広島女子商学園の同級生が中心になり「原爆障害者更生会」をつくって励まし合ってきた
1952/6/10
映画「原爆の子」撮影順調。主演の乙羽信子、清水将夫、宇野重吉氏らが顔をそろえる
1952/6/11
上京中の原爆乙女が巣鴨拘置所に戦犯受刑者を慰問。広島市出身の賀屋興宣元蔵相「郷土の皆さんをこういう目に遭わせたのはA級戦犯たる私にその罪がある。慰問をしてもらうどころか私こそみなさんを慰問しなければと思っていたが囚われの身で…」。畑俊六元大将「当時私は広島の陸軍の最高指揮官をしていた。広島は西部日本の中軸で旧敵国がこれを狙ったのは当然です。私どもが広島にいたばかりにみなさんをこういう目に遭わせました」
1952/6/13
原爆乙女らがヒロシマ・ピース・センター・ニューヨーク事務局長のマービン・グリーン氏を羽田に出迎え、広島帰着
1952/6/14
米グロトンで初の原子力潜水艦ノーチラス建造着工式。トルーマン大統領が「原子力兵器による危険が存在する限り、われわれは核破壊物質の大部分を原子力防衛のため利用しなければならない」
1952/6/15
ヒロシマ・ピース・センターのマービン・グリーン事務局長が広島流川教会で原爆孤児らと会い施設外の一般孤児46組の精神養子縁組を発表。自身も里親に。8人の孤児の留学話も伝える。その後新たに64人を精神養子に
1952/6/15
峠三吉氏が青木文庫から「原爆詩集」出版。25編=1951年9月20日、新日本文学会広島支部、われらの詩の会から謄写版刷りで出版(「原爆被災資料総目録・第4集」)
1952/6/27
「原爆の子」を日教組も映画化へ。編者の長田新広島大教授と日教組の間で契約
1952/6/--
広島市がケロイド治療のために全国募金を計画
1952/6/--
広島市鉄砲町平和街の福井芳郎画伯が自らの原爆被災体験を絵に。8点のシリーズ計画
1952/6/--
映画「原爆の子」製作に協力しようと広島市役所職員組合が募金運動。一般市民の間にも広がる
1952/6/--
戦傷病者戦没者遺家族等援護法の適用範囲拡大へ。警防団、医療救護班、国家総動員法による実務に従事していた公務員なども対象に

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