ヒストリー

ヒロシマの記録1952 11月


1952/11/1
日本物理学会が原子力委員会設置問題で論争。賛成=伏見康治(阪大)、菊池正士(同)教授、反対=三村剛Ze(広島大)、坂田昌一(名古屋大)教授ら
1952/11/1
米が太平洋マーシャル諸島エニウェトク環礁で初の水爆実験。16日に正式発表。「今回の実験は1950年1月31日のトルーマン大統領の声明からさらに前進したもので、実験プログラムは熱原子核兵器研究に着手する諸実験を含んでいた」
1952/11/1
長崎で手持ちの現金1万4,000円を盗まれたフロイド・シュモー氏に広島市民が募金で償う
1952/11/2
映画「原爆の子」に感動した東京・町田の子供たちが似島学園などを訪問
1952/11/3
世界連邦アジア会議参加のアメリカ代表モーリス・トロヤーズ国際キリスト教大学副学長が精神養子運動で孫になる原爆孤児と対面
1952/11/3
広島市本川小で世界連邦アジア会議広島大会、6日まで。極東国際軍事裁判インド代表のパール前カルカッタ大総長、世界連邦世界運動創立会長の英国のボイド・オア卿(1949年ノーベル平和賞受賞)ら海外14カ国、28人の代表はじめ日本側約1,000人が参加、議長に賀川豊彦氏を選ぶ。アインシュタイン博士が「世界連邦運動は、現在の無制限の国家主権を制限すること」とのメッセージを寄せる
1952/11/3
極東軍事裁判インド代表のパール判事が原爆慰霊碑に参拝後、碑文に疑問を表明。「『過ちは繰返しませぬから』とあるのは日本人を指しているのは明らかだ。それがどんな過ちであるのか私は疑う。ここにまつってあるのは原爆犠牲者の霊であり、原爆を落としたのは日本人でないことは明瞭。落としたものの手はまだ清められていない。この過ちとは、もしも前の戦争を指しているのなら、それも日本の責任ではない。その戦争の種は西洋諸国が東洋侵略のために起こしたものであることも明瞭である。…」
1952/11/4
世界連邦アジア会議参加の英代表、ボイド・オア卿が広島市農協ビルで講演。「各国が無益な原爆製造競争をやめれば世界の飢餓と貧困はなくなる」
1952/11/5
広島県部落解放委など民主団体が世界連邦会議参加者を招き広島市内で懇談。吉川清氏「米は広島市民に賠償金を支払うべき」。米のブリン・ジョーン博士「個々の日本人が真珠湾攻撃に責任がないのと同様、アメリカ人も全面的に原爆投下の責任を負わせられるべきではない。政治と国民の遊離が生んだ悲劇である」
1952/11/6
世界連邦アジア会議が「原子兵器の製造ならびに使用を禁止する」「軍備の撤廃を目標として各国の現存軍備を徹底的に縮小する」などの広島宣言。「原子兵器の管理を強化する」「安全保障理事会へアジア諸国の代表者をより多く参加せしめる」「8月6日を世界平和運動の記念日とする」など国連に対し勧告。「原爆被害状況の写真並びに研究成果の発表を自由にすること」などの各国政府への勧告を採択し閉幕
1952/11/6
広島市内の戦犯6家族が世界連邦アジア会議で広島訪問中のインドのパール判事に会い「夫を父を返して」と訴える
1952/11/8
米紙ロサンゼルス・エグザミナーが水素爆弾目撃者の証言を掲載。「実験はエニウェトク環礁中の幅約0.8キロ、長さ約4.8キロの小島で行われ、爆発と同時に島はガスとチリに化してしまった」
1952/11/10
雑賀忠義広島大教授がパール判事に抗議文。「広島市民であるとともに世界市民であるわれわれが、過ちを繰返さないと誓う。これは全人類の過去、現在、未来に通ずる広島市民の感情であり良心の叫びである。『原爆投下は広島市民の過ちではない』とは世界市民に通じない言葉だ。そんなせせこましい立場に立つときは過ちを繰返さぬことは不可能になり、霊前でものを言う資格はない」
1952/11/14
福山市の靴商が原爆の高熱で縮んだ靴を原爆資料館に寄贈
1952/11/15
雑誌「改造」増刊号(第33巻第17号)が「この原爆禍」と題し特集(「奥付」)
1952/11/15
日系米国人のマイク・マサオカ氏が広島県安芸郡府中町の父の墓に参った後、原爆乙女らの救援を約束
1952/11/16
米が一連の水爆実験終了を発表。ゴードン・ディーン米政府原子力委員長が水爆実験の正式発表以前に新聞に多数の目撃談が掲載されたことを重視、「秘密漏洩者を起訴するかどうかを検討中」と述べる
1952/11/18
原爆遺家族援護促進会が広島市会議事堂で開き、戦傷病者戦没者遺家族等援護法で支給される弔慰金の年金化、援護対策の枠拡大などの要望を決定
1952/11/19
世界平和評議会がオーストリア・ウィーンで開く世界平和人民大会(12月12日)への招待状が三笠宮、長田新広島大教授、谷本清広島流川教会牧師らに届く
1952/11/19
広島戦災児育成所から市に施設移管の陳情。「子供たちが18歳になると児童福祉法による生活保護がなくなる。将来展望が開けない」。12月23日、広島市議会が市移管を決定。1953年1月から「広島市営戦災児育成所」として再発足
1952/11/25
日教組製作の映画「原爆の子」の題名を「ひろしま」と変更することで原作の編集者である長田新広島大教授がクレーム。日教組は「これは組織決定」
1952/11/28
原爆弔慰金の交付対象まず疎開作業従事の義勇隊員に
1952/11/--
原爆慰霊碑碑文をめぐり中国新聞に載った過去の言葉集。「原爆記念碑に刻まれたこの言葉を僕は立派だと思う。なにが過ちであるかを反省し続けること、そして過ちを決して繰返さないと言い切ること、これは容易なことではない。しかし、このことがなされない限り、犠牲者たちは決して安らかに眠ることができないに違いない」(評論家矢内原伊作氏)「いつも被害者にされっ放しの民衆の立場に立った誓いであるならば『過ちは繰返させませんから』でなければならないのではなかろうか」(作家堀田善衛氏)「私はむしろ『ねむらずに墓の底から叫んで下さい。過ちが繰返されそうです』と書きかえるべきだと思う」(原子物理学者武谷三男氏)
1952/11/--
広島文学協会の機関誌「広島文学」の中の若手グループが原爆の文学研究会を作る。メンバーは梶山季之、田端典、小久保均、兼川晋、藤沢国輔、石原実、筒井重夫、稲田美穂子氏ら
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