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ヒストリー

ヒロシマの記録1951 10月


1951/10/1
ラベット米国防長官と統合参謀本部の3軍参謀総長が米上下両院合同原子力委員会の秘密会議に出席、原子力拡張計画を勧告
1951/10/2
ノーマン・カズンズ氏の代理、米オレンジ市のマービン・グリーン氏から広島市へ1951年後半期の精神養子育成資金1,500ドルが届く。似島学園の孤児15人の新たな精神養子縁組も決まる
1951/10/2
「原爆の子-広島の少年少女のうったえ」が岩波書店から発刊。原爆を体験した少年少女の作文集で、広島大の長田新教授が編集(10・7、「原爆被災資料総目録・第4集」)
1951/10/2
ブエノスアイレス市の「亜国日報」社長宮地勝夫氏から中国新聞社に届いたアルゼンチンの種子40種を広島市に手渡す
1951/10/3
世界連邦広島県協議会の設立総会が広島市の広島流川教会で開催(10・3、「世界連邦運動ヒロシマ二十五年史」)
1951/10/3
人類愛善会広島県連合会が平和問題懇談会を開催
1951/10/3
米政府が「ソ連が2回目の原子爆弾を爆発させた」と発表
1951/10/4
米下院が原子力戦争の防衛措置として非常時に全米ラジオ放送局の使用制限、閉鎖を行う権限を大統領に与える法案を可決
1951/10/4
トルーマン米大統領が定例記者会見。「ソ連の原爆実験回数が増えたことで、第三次大戦発生の危険が増さないとは断定できない」
1951/10/5
米上院議員3人がトルーマン大統領に「朝鮮戦線の情勢が緊迫し次第、いつでも共産軍に原子爆弾を使用する権限を米軍指導者に与えるよう」要請
1951/10/5
米政府当局筋は「現情勢では原子力兵器を朝鮮戦線に使用する意図はない」と言明。米政界筋は「双方がまだ休戦の可能性を求めている時期にそのようなことを積極的に取り上げるのは尚早」と指摘
1951/10/5
ディーン米政府原子力委員長がカリフォルニア大で演説。「いかなる軍事情勢にも対応できる大量かつ種類の異なる原子兵器を利用できる新時代に入りつつある」
1951/10/5
広島市の己斐小の5、6年児童が被爆体験記をつづる。平和教育の一環で、広島大の長田新教授が研究資料として保存
1951/10/5
ソ連のスターリン首相が共産党機関紙プラウダ記者との会見で「ソ連が最近、原子爆弾の実験をした」と発表。6日にモスクワ放送も報道。スターリン首相「最近われわれがある型の原子爆弾の実験をしたことは事実。将来も米英侵略ブロックからの攻撃に対し、ソ連を守るため各種の原子爆弾実験が行われるだろう」
1951/10/6
広島市の似島学園が創立5周年の祝賀式。開園時の34人が180人に、米の精神養子申し込みも80人余に上る
1951/10/6
米民主党ジャクソン議員が原子力計画の拡張について会見。「計画を拡張するため資金を現在の10億ドルから50~100億ドルに増額すべき。ソ連の2回目の原爆実験はソ連が今や全面戦争を始める能力を持つに至ったことを証明した。われわれはまだ原子競争でソ連より優位に立っているが、今後はこのリードを拡大しなければならない」
1951/10/7
ソ連のスターリン首相の原爆実験声明に米ニューヨーク各紙が反響掲載。ニューヨーク・タイムズ「スターリン首相はソ連が米あるいは他のいずれの国も攻撃する意図を持たない旨言明したが、これは首相の善意によるものではなく、自由諸国民が獲得した力によるものである」
1951/10/7
ディーン米政府原子力委員長が米議会への声明書で「米国は現在、地上軍に使用される戦術的原子兵器を製造中」と発表
1951/10/8
コールドウェル米民間防衛局長官がUSニューズ・アンド・ワールドリポート誌で原爆に対する米の防衛を語る。「ソ連は米の主要都市に対し同時に広範な攻撃を加えるだけの原爆を保有している。ソ連が米攻撃を決意すれば米のレーダー網はソ連の原爆搭載機の侵入を阻止することは出来ないだろう」
1951/10/8
米上下両院合同原子力委員会が友好諸国に非軍事的な原子力資料を配布する案を承認
1951/10/11
米ニューヨーク・タイムズの原子力問題記者ウィリアム・ローレンス氏がテネシー州ナッシュビルで演説。「米は2年以内に広島や長崎に投下した原爆の1,000倍もの力を持つ水素爆弾を持つようになるだろう。原子力分野で今のところ米はソ連を完全に引き離しており、絶対に追いつけない状態にある」
1951/10/13
AFP通信が「米は近くラスベガスで再び新しい原子兵器の実験を行うもよう」と報じる
1951/10/14
米ニューヨーク州のデューイ知事がNBC放送のテレビショーで「共産軍が朝鮮停戦に同意しなければ満州に対する原爆攻撃に賛成する」と語る
1951/10/15
ベルリン・アピールの全国署名が570万人分集まる(「ヒロシマの記録」)
1951/10/16
広島平和問題談話会が広島市八丁堀の菊屋で設立懇親会。宗教、国籍、社会思想を問わず世界平和の探求が趣旨。広島女学院大のメアリー・マクミラン女史、広島大文学部長の渡辺鼎教授、同理学部の佐久間澄教授、広島記念病院内科部長の朝野明夫博士らが発起人
1951/10/17
広島医科大の河石九二夫教授がハワイでの汎太平洋外科学会第5回会議のため横浜から渡米。原爆の実相と広島市の復興状況を紹介へ
1951/10/19
第1回広島県戦没者合同慰霊祭が広島児童文化会館前の広場で開催。県内の遺族約1万2,000人が参列
1951/10/22
米政府が「ソ連は3回目の核爆発を行った」と発表。米大統領新聞係秘書ジョセフ・ショート氏は「ソ連国内で行われた新しい核爆発は明らかに一連の実験の一部と思われる。これからも爆発は時々行われるだろう」と言明。米ソの原爆競争が激化へ
1951/10/22
米ラスベガスの実験場で核爆発実験。米政府原子力委員会も認める
1951/10/24
平和運動推進団体の国際友和会(FOR)幹事ミュリエル・レスター女史が広島平和問題談話会などの招きで広島市を訪問。広島大図書館で絶対平和実現の可能性について講演
1951/10/25
米政府原子力委員会医学部門の生物統計学者ブラント博士がABCC顧問として広島に到着
1951/10/26
ハワイ・ヒロ・ロータリークラブのカール・スミス国際委員長から広島ロータリークラブに届いた世界平和への決意の録音を広島中央放送局が放送
1951/10/26
百メートル道路の新橋、新大橋が欄干を除き完成、通行を開始
1951/10/27
第6回国民体育大会秋季大会が広島市南観音町の県営競技場で開幕、5日間
1951/10/28
米政府原子力委員会がネバダ州ラスベガスで一連の実験のうち2回目の核爆発実験
1951/10/29
日本陸連総裁(秩父宮)の名代で広島市を訪問した秩父宮妃が広島国体について感想。「原爆の惨禍を受けて施設にも期待はしなかったが、万難を排して立派な国体施設を造られている。開会までのご努力に感謝と敬意を払います」
1951/10/31
米ネバダ州ラスベガスで25日に行われた原爆実験に立ち会った米下院原子力分科委員長アルバート・ゴア議員が記者団に語る。「この原爆の大きさは部隊なら1個師団を撃滅できるように思えた。原爆の正確さとその破壊効果を目撃して、朝鮮休戦交渉が決裂した場合、これが使用されるだろうとの感を深くした
1951/10/--
広島市の平和記念公園内に建設予定の慰霊塔の設計も東大助教授丹下健三氏に依頼することに

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