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ヒストリー

ヒロシマの記録1951 11月


1951/11/1
米政府原子力委員会がネバダ州ラスベガス付近の実験場で原爆実験。初めて部隊参加の原子演習
1951/11/1
チャーチル英首相が大国復帰のため、原子力と誘導爆弾の開発に最優先権を与えることを盛り込んだ原爆対策強化の計画を閣議に提出。チャーウェル支払総監を原爆製造促進の統括官に任命
1951/11/1
英政府の当局者が「チャーチル首相は英が二流国となっていない証拠として少なくとも1個の原爆を生産し、これを実験する決意をした」と語る
1951/11/1
ソ連の英文誌「ニューズ」が大国の平和交渉と国連の原爆禁止実現に向けた再努力を要請
1951/11/1
第2回平和擁護世界大会がウィーンで開幕、6日まで。50カ国の代表180人が参加、アジア平和会議を提唱
1951/11/1
米の原爆問題権威者がAFP通信記者に語る。「米は1953年までに戦術型原爆数百個と破壊力の強大な従来型原爆約2,000個を保有することになろう。原爆生産能力は近く1日1個になるだろう」 1951/11/1
広島市の人口が30万人を超え、30万435人に。被爆直前は31万2,277人、6年間で戦前人口に復旧
1951/11/2
GHQ新聞課長インボデン中佐が中国新聞社を訪問。「日本全体の利益を促進するためには地方紙の発展が必要。中国新聞は灰じんに帰した広島が立ち上がるために非常に大きな貢献をした」と激励
1951/11/3
原爆の惨禍と復興をテーマにした交響詩「広島」が公開発表。広島中央放送局から全国中継
1951/11/3
広島県立児童図書館が広島市下中町のCIE図書館に隣接して開館
1951/11/5
米政府原子力委員会がネバダ州ラスベガス付近で原爆実験。一連の実験の5回目。同委員会は「今次実験の第1段階(原子兵器改良と地上部隊への影響研究)は終了。第2段階は数日後再開され、主に効果面が研究される」と発表
1951/11/6
山下義信参院厚生委員長が広島市で語る。「国会で取り上げようとしている戦死者遺族援護対策の中に、被爆当時、軍の建物疎開作業で徴用された犠牲者の遺族も含めたい」
1951/11/7
一般募集した百メートル道路の二橋の名前が決定。新橋(元安川)を「平和大橋」、新大橋(本川)を「西平和大橋」。百メートル道路は「平和大通り」に
1951/11/7
第6回国連総会(パリ)で米が新しい軍縮案を提出。東西の緊張緩和へ原子兵器および一般兵器の国際管理などを提唱
1951/11/8
米シアトルのウィリアム・デビン市長と夫人が広島市を訪問。9日、シアトル市民の浄財で原爆孤児に贈られた運動器具の授与式に出席
1951/11/8
反人種差別の指導者でニューヨークの黒人牧師ジェームズ・ロビンソン氏が広島市を訪問。10日、記者団に語る。「私は原爆の日以来、原爆投下は不必要であったと語ってきた。市民が広い心をもって将来を期待、努力しているのを見る時、インド人の無抵抗主義とともに長く世界史の2つの奇跡として残ることだと思う」
1951/11/8
ソ連が国連総会で米の軍縮提案を拒否。改めて一切の原子兵器の禁止と5大国の不戦条約締結を提案(11・10夕)
1951/11/9
広島、長崎両市議会で結成する両原爆都市協議会第2回会合。「復興建設事業費について特別起債枠拡大の促進、両市の記念建設事業の早期完成」などを決議
1951/11/12
フィンレター米空軍長官が米在郷軍人会会合で演説。「戦争の原子力革命は始まった」
1951/11/12
ハワイ・ホノルル市KGU放送局日本語放送部スタッフが広島市を訪問、復興状況などを録音。11年ぶり復活の日本語放送プログラムとして在留邦人に独自番組「ヒロシマ」を放送へ
1951/11/15
原民喜詩碑の除幕式が秋雨の広島城跡で。碑設計の谷口吉郎東京工大教授、作家丸岡明氏、森戸辰男広島大学長らが参列。詩人の佐藤春夫氏が献詩を朗読。碑文は「遠き日の石に刻み/砂に影おち/崩れ墜つ天地のまなか/一輪の花の幻」
1951/11/15
1951年度ノーベル化学賞に原子核研究の米カリフォルニア大グレン・シーボーグとエドウィン・マクミラン両教授の受賞が決定。シ教授はプルトニウムなど5つの新元素を発見、原爆の廉価生産が可能に。マ教授は新元素ネプトニウムを発見しプルトニウム発見に道を開く。同物理学賞には英のハーウェル原子力研究所長ジョン・コッククロフト卿とトリニティー大のウォールトン教授。両氏は高電圧利用で初めて原子核分裂に成功、原子力時代のさきがけを作った功績
1951/11/15
米在郷軍人会執行委員会が朝鮮戦線での中国軍の国連軍捕虜虐殺の報に対し、朝鮮での原爆の報復使用に賛成
1951/11/16
日本学術会議第3部総会が広島市で開催。平和問題懇談会を設け「広島の平和都市建設をめぐる諸問題について」をテーマに広島県、市、8団体が意見交換
1951/11/16
ソ連のビシンスキー外相が国連総会で4項目の軍縮新提案。「国連が5大国の軍備三分の一削減を勧告。国連安保理の監視で特別国際管理機関を設置し軍備調査数字を確認」
1951/11/16
国連総会でフィリピンのロムロ代表が「諸大国は全人類を原爆戦争の恐怖から救うため、すべての問題を徹底的に討議すべき」と強調
1951/11/16
トム・コナリー米上院外交委員長が中国軍の国連軍捕虜虐殺に対する報復措置として原爆使用に賛成を表明
1951/11/17
英ハーウェル原子力研究所で世界最初の原子力利用暖房装置の試験に成功
1951/11/19
アチソン米国務長官が12カ国で軍縮委員会を設置する新しい軍縮決議案を国連第1委員会に提出。世界の緊張緩和へ米英仏3国が提案
1951/11/20
英労働党左派議員バーバラ・キャッスル女史が英下院外交討議で国連軍虐殺に関連して「英の同意なく朝鮮で原子爆弾を使用しない保証を米に求めるよう」政府に要求。イーデン外相は「原子爆弾使用に関する取り決めは朝鮮戦乱の発生以来、変化していない」と答弁
1951/11/21
原爆の犠牲になった動員学徒を慰霊する「学徒の像」建設案が広島市議会文教、厚生両委員会で可決
1951/11/21
戦争犠牲者の援護対策について橋本龍伍厚相が参院予算委員会で答弁。「旧軍人、軍属以外の徴用工、動員学徒の遺家族保護にも範囲を広げるべきだと考えている」
1951/11/22
爆心の本川小学校が落成式。平和都市記念校として市内初の鉄筋3階校舎
1951/11/22
広島市内の原爆犠牲の学徒と教職員数は9,505人と市教委が発表。市内各学校の教職員報告や市の原爆死亡調査、広島県の学徒援護会の書類から集計
1951/11/24
ジョン・ハーシー氏著「ヒロシマ」をタイで翻訳した女流作家スリパン女史と夫が広島市を訪問。「登場人物の6人に会いたい」
1951/11/24
キューバ砂糖栽培業者協会の年次総会で、広島の原爆犠牲者に砂糖の寄贈を決定
1951/11/24
ソ連のビシンスキー外相が国連第1委員会で米英仏3カ国の軍縮提案を拒否。「真の軍縮を考えていない」
1951/11/24
米ニューヨーク地区の民間防衛本部長アーサー・ウォランダー氏が同市で初めて原爆模擬退避演習が行われる、と明かす
1951/11/26
彫刻家イサム・ノグチ氏と平和記念館の設計者で東京大助教授の丹下健三氏が広島市を訪問。ノグチ氏は平和大橋と西平和大橋の欄干設計の工事監督。「広島での仕事が直接見たかった。慰霊碑の設計を頼まれている。コンクリートでどれだけ簡単な構造ですませるか。芸術性など考えて発展させたものにしたい」
1951/11/26
欧州統一軍最高司令官アイゼンハワー元帥が北大西洋条約機構(NATO)防衛委員会で言明。「最高司令部は戦闘力強化のため小型原爆を含む種々の新兵器採用を考慮している」
1951/11/--
広島大が世界各国から寄贈された蔵書を年初から記念展示。寄贈は世界63カ所の図書館、大学、研究所などから3,164冊。「平和文庫」設立し平和問題研究へ

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