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ヒストリー

ヒロシマの記録1950 8月


1950/8/1
米政府原子力委員会が議会に「原子爆発物の生産はかつてなく順調。水爆の生産製造計画も進行中」と報告書
1950/8/2
広島平和協会が広島市役所で緊急常任委員会を開き平和祭中止を決定。「戦災死没者に対する敬けんな祈りの日とする。午前8時15分には全市一斉にサイレン、黙とう。8時半から1時間、広島戦災供養会が主催し広島戦災供養塔で慰霊祭」。奥田達郎平和協会長代理(助役)「8月6日の式典は都合により取りやめることになった。当日は反省と祈りの日として市民各位に敬けんな一日を送っていただきたい」
1950/8/2
英デーリー・エクスプレス紙が「英はウラニウム235の大量生産を2年内に開始」と報道
1950/8/2
米政府原子力委員会がデュポン社と水素爆弾生産工場の建設契約を結んだと発表
1950/8/3
ベルリン・ソ連地区の「平和のための闘争委員会」が全市民に8月6日の1分間の黙とうを呼び掛け
1950/8/4
平和祭中止について連合国軍中国民事部部長のC・N・ベイリー大佐から広島市に「これ(平和祭中止)が結局、万事が最も良きようになるためであると信じねばなりません。不安の時代に味わった失意は平和な将来においてつぐなわれんことをわれわれは希望するものであります」(「広島新史・資料編2」)
1950/8/4
原爆体験記「ひろしま」の作者、衣川舜子氏から原爆被災の人のためにと広島市に印税など1万円
1950/8/4
広島大仏が爆心地の広島市細工町の西蓮寺に移る
1950/8/4
広島市江波町でフロイド・シュモー氏の「ヒロシマ・ハウス」受納式。6日、シュモー氏帰国。米で展示のため原爆の惨状を描いた新延輝雄氏作の絵「たそがれ」を携行
1950/8/5
米ニューヨークで「ヒロシマ1950年委員会」(アメリカン・フレンド・サービス・コミュニティなどで構成)が呼び掛け多彩な平和運動。ユニオン・スクウェアに1万5,000人参加し平和集会、「ノーモア・ヒロシマズ」を叫び行進。フィンランド、西ドイツ、オーストリア、チュニジア、フランスでも大会(「原爆三十年」)
1950/8/5
広島市警察本部が5、6日に広島市平和広場で開かれる予定だった広島平和擁護委員会、広島青年祖国戦線準備会などの行事を禁止。「反占領軍的、反日的とみられる集会、集団行進、集団示威運動は禁止」。市民各位に訴えるとして「平和祭に名をかる不穏行動に乗るな。知らずして犯罪に問われるな」とのビラを配る
1950/8/6
広島市の市民らが福屋デパート屋上からビラをまき、同デパート前、広島駅前でゲリラ集会。広島市警が「不穏ビラ」をまいた4人を逮捕
1950/8/6
被爆5周年。午前8時15分、市内のサイレン、黙とう、広島戦災供養会が主催し供養塔前で読経。午後2時、似島でも供養会
1950/8/6
滞米中の浜井広島市長がロサンゼルスでMRA主催の「広島の夕」に出席。ロス市長らを前に「恒久平和への道」と題しスピーチ。「(広島は)この戦災によって一挙に21万8,000人以上を失ったばかりでなく、生き残った広島市民もほとんど克服しがたい困難に日々直面している。…原子爆弾使用の可否を論ずることは私の立場ではありません。私は米の決定に全幅の信頼を置きたいのであります。しかし、確信を持って言えることは第2の広島を防ぐ道は戦争そのものを防止する以外にないということです」
1950/8/6
広島市中央公民館で予定されていた第5回ユネスコ全国大会中止
1950/8/6
東京・銀座三越、丸善画廊で丸木位里・赤松俊子氏作の「原爆の図」三部作を展示。20日まで(夕刊中国8・21)。両氏が絵・文の「ピカドン」が日本平和を守る会から出版(「原爆被災資料総目録・第4集」)
1950/8/6
日本平和を守る会が、平和擁護日本委員会に改組決定(「近代日本総合年表」)
1950/8/7
浜井広島市長がロサンゼルスで「正義の人ならだれも原爆が朝鮮で使用されないよう望んでいよう。日本国民はトルーマン大統領と国連がとっている措置を全面的に支持している」
1950/8/8
財団法人ヒロシマ・ピース・センターが設立認可。理事長に長田新広島大教授、副理事長に谷本清広島流川教会牧師(「広島平和文化センター・平和関係団体調査報告書」)
1950/8/8
広島市募集の原爆体験記が出版へ。164編の応募作の中から18編と抜粋した16編を130ページにまとめる。1,500部印刷(1965年、朝日新聞社から29編をまとめ「原爆体験記」として新たに出版)
1950/8/9
長崎市主催の文化祭行事が一切中止される(「長崎年表」)
1950/8/12
米政府原子力委員会が「原子兵器の効果」を出版。ロスアラモス原子力研究所が原爆の攻撃を受けた際の措置をまとめる。「10秒間、伏せよ。体の露出部分を覆え」。465ページ
1950/8/14
原子爆弾発明から広島投下までを描いた米MGM映画「始めか終りか」が広島市など全国11府県6館で有料試写会。収入全額を広島市の復興資金へ
1950/8/19
広島平和記念都市建設費に対日援助見返り資金9,000万円の交付が決定。中島公園の東西両側の橋建設費
1950/8/21
イサム・ノグチ氏が中島公園の東西両側に架かる橋の設計を引き受ける
1950/8/23
ビルマ・ラングーン市長から浜井広島市長に「愛と平和」を強調の手紙が届く
1950/8/26
広島戦災児童養育資金管理運営委員会が、ノーマン・カズンズ氏提唱の精神養子として新たに215人の履歴、写真を送る。原爆孤児にこだわらず。似島学園114人、新生学園67人、修道院19人、光の園15人
1950/8/28
ヒロシマ・ピース・センター建設委員会が第1回理事協力者懇談会を開く。広島流川教会で長田新、田中好一、河村虎太郎、木原七郎氏ら18人が出席。谷本清氏が広島城跡にピース・センター建設などの成案を持ち、募金運動のため渡米することが決まる
1950/8/30
スイスのMRA運動世界大会出席の後、ヨーロッパ、米国を訪問した楠瀬常猪広島県知事、浜井広島市長、川本精一広島市議会議長らが帰国。9月4日広島に帰着。楠瀬知事「日本では小さいヒロシマの存在が世界では随分大きいということが今度の視察で初めて分かった」
1950/8/--
金井清東大地震研究所教授(元原子爆弾災害調査委員)が、広島市に「原爆爆心地は革屋町電停(現本通電停)西170メートルの地点」と手紙
1950/8/--
広島大に平和研究所設置構想が生まれる
1950/8/--
ABCCが1949年末リポートを発表。広島、呉、長崎で3万5,000人以上の妊婦を登録、6,000人以上の出生児訪問、4,500人以上の児童発育調査などのほか、広島8万6,818人、長崎7万9,607人の被爆者調査完了
1950/8/--
広島大が反米ビラ配布の7人を無期停学に

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