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ヒストリー

ヒロシマの記録1949 8月


1949/8/1
トルーマン米大統領が米政府原子力委員会年次報告に併せ「米国の原子力計画は今後も力を弱めず効果的に推し進める必要がある」
1949/8/3
法政大出版局がジョン・ハーシー氏の「ヒロシマ」を昭和天皇、皇后、明仁皇太子に献本
1949/8/3
広島市議会がトルーマン米大統領あての平和請願署名運動の11日開始を決定。市役所内に世界平和運動請願署名推進本部(本部長、森沢雄三助役)を設置
1949/8/4
米クエーカー教徒のフロイド・シュモー氏らがヒロシマ・ハウス建設のため広島市入り。全米からの浄財4,000ドル携帯
1949/8/4
広島市比治山多聞院に原爆中心地の放射能を含んだ砂を鋳込んだ「八時の鐘」奉納。「八時の鐘」は市内10カ所の寺院、教会に分鐘され毎日午前8時から10分間一斉につこうというもの。1950年4月6日には戦災供養塔にも鐘の奉納があった。鐘にはノーモア・ヒロシマズの英文も刻印
1949/8/5
広島児童文化会館で広島平和協会主催の「平和音楽祭」。イギリスの詩人ブランデン東大講師の「ヒロシマに寄する歌」(山田耕筰氏作曲)、広島出身の詩人大木惇夫氏の詩「ひろしまの歌」など紹介
1949/8/5
広島銅合金鋳造工業協同組合がつくっていた「新平和の鐘」が完成。平和のハトの図とノーモア・ヒロシマズの文句を鋳込む。直径1.2メートル、高さ1.4メートル、重さ760キロ。山本博広島工業専門学校教授が設計。「被爆した金属で鋳造することで、ヒロシマの悲惨を後世に伝えよう」と造る。当初はつり鐘型の予定だったが〓浜井広島市長が「世界の平和を祈るのだから、外国人にもなじめるものを」とベル型にする
1949/8/5
広島市で仏教伝道協会主催の原爆供養仏教平和祭典を開く
1949/8/5
広島中央運動庭球場、公民館で第3回マッカーサー元帥杯全国競技大会。硬・軟庭球、卓球
1949/8/6
広島平和記念都市建設法が公布
1949/8/6
広島市基町の市民広場で第3回平和祭式典。ロバートソン英連邦軍総司令官代理などの米英人80人ら約3,000人が出席
1949/8/6
浜井広島市長平和宣言「4年前のきょうは、われらの父祖の都市が一瞬にして暗黒のちまたと化し10数万の市民がその貴い生命を捨てた日である。しかし、この戦災は戦争による人類破滅の危険を示唆するとともに、戦争のために傾注せられた人間の努力と創意をもってすれば世界平和の建設が決して不可能でないことを確信せしめた。この教訓に基づき、真剣に平和への道を追求することこそ、世界人類に対する最大の貢献であり、地下に眠る市民の犠牲を意義あらしめる最善の道でなければならない」▽吉田首相メッセージ(代読)「広島市はその体験した悲惨な戦禍を永遠に地球上からまっ殺して、世界恒久平和を誠実に実現しようとする理想の象徴として、平和都市として復興せられることになった。広島平和都市の建設は、まさにわが平和の理想を世界にせん明するものであり、国際的にも意義の深いことである」
1949/8/6
浜井広島市長、任都栗司市議会議長がトルーマン米大統領にメッセージ。「大統領閣下におかせられては、広島市民の意を了とせられ平和都市建設法を通じてなさんとする聖業の上に多大な関心を寄せられ、偉大なる人間愛の大使命達成の上に賛助賜らんこと懇願してやみません」(8・7)
1949/8/6
広島市戦災死者慰霊祭が午前7時半から中島本町供養塔前、午後1時20分から似島供養塔前。広島市戦災供養会が主催
1949/8/6
平和式典の英文プログラムが「ピース・フェスティバル(祭典・祝典)・プログラム」となっていて問題になる(「原水爆時代上」)
1949/8/6
広島児童文化会館で広島平和婦人大会。約1,000人参加。マッカーサー元帥夫人らからメッセージ。宣言「平和のために女性のすべての愛情をささげます」。平和式典に連携して開かれた初の平和集会(「平和記念式典の歩み」)
1949/8/6
世界各地で第2回世界平和デー。米オークランドのアルフレッド・パーカー氏(ノーモア・ヒロシマズ運動主宰)から広島市に連絡。「カリフォルニア州で渡米中の谷本清氏が主催し記念式典。ロンドン、ベルリン、ニューデリーでも」
1949/8/6
英ヒロシマデー委員会が主催しロンドン・ハイドパークで広島原爆記念大会。宣言「われわれは広島市民に心からなるこのメッセージをお送りするとともに、広島における経験が世界中いずこの地においても二度と繰り返されぬようわれわれの努力の限りを尽くすべく決意いたします」(「広島新史・資料編2」)
1949/8/6
広島市の平和記念公園の設計コンペで1等に丹下健三、浅田孝、大谷幸夫、木村徳国ら4氏の共同作品。全国からの応募作品145点
1949/8/6
広島平和記念都市建設法公布記念切手が発売される。薄褐色でデザインはバラを持った女性
1949/8/6
広島市基町の市水道局構内に「水道部員殉職の碑」が完成、除幕。犠牲者83人。駐留軍に気兼ねしながら石材業出身の職員西山吟一さんが碑銘を刻む
1949/8/9
長崎市が被爆4周年で国際文化祭式典。大橋博市長が国際文化都市宣言。「長崎における原爆を最後として再び人類が戦争の脅威におののくことをなくし偉大なる原子力は世界平和のため人類の福祉に貢献せられんことを熱願するとともに、本日の祈念式典に当たり国際文化の向上と恒久平和の理想達成を目的とする国際文化都市建設法の精神に則り、厳粛にして誠実なる世界平和の原動地として全世界に誇る文化と平和の象徴都市を建設せんことを宣言する」
1949/8/9
長崎国際文化都市建設法が公布(「長崎年表」)
1949/8/11
米雑誌「土曜文学評論」のノーマン・カズンズ氏、アメリカ作家協会の代表として広島市を訪問。ヒロシマ・ピース・センター建設、広島から米国に向けての放送(録音盤)などを計画。「アメリカにいる人たちはヒロシマがアメリカを必要とする以上にヒロシマを必要としている。原子爆弾に対抗するには平和しかないが、平和は偶然に起きるものではなく建設されなくてはならない。平和は政府が法の産物であるように法に裏づけられたものでなくてはならない。全世界の人はいまや地理的に繋がった社会の一員となっているが、この社会を秩序ある世界にするのもまたヒロシマに課せられた義務であると思う」。広島戦災児育成所も訪れ感銘を受ける
1949/8/15
吉川清氏が病床記録「平和のともしび」を出版(「原爆被災資料総目録・第4集」)
1949/8/19
広島・長崎の原子爆弾の影響を研究中の米学者が「25年もたてば両市に日本人の平均より5センチから10センチ背の高い人間が生まれる可能性がある」と発表
1949/8/23
広島市がスウェーデン・ストックホルムで開かれる第3回世界連邦建設運動大会に賛同のメッセージ(8・25) 1
949/8/23
広島市が実施していたトルーマン米大統領への世界平和請願署名10万人を突破
1949/8/28
ノーマン・カズンズ氏の広島録音盤、米国で放送される(「広島原爆とアメリカ人」)
1949/8/28
浜井広島市長がABC米ラジオ放送で「原爆による広島市の死者は20万人を超える」と言明。「日本政府は原子爆弾の死者については一般市民の死者だけしか発表せず、それも最小限の数字しか明らかにしなかった。米側が原子爆弾の効果を知ることを恐れたのである。市民のほか、兵士3万人、防衛施設構築に当たっていた労働者2万8,000~3万人が犠牲になり、全死亡者は計21万~24万人と見積もる」
1949/8/29
ソ連がセミパラチンスク核実験場で第1回原爆実験(「核に汚染された国-隠されたソ連核事故の実態」)

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