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ヒストリー

ヒロシマの記録1945 8月


1945/8/6
太平洋テニアン島を発進したB29爆撃機エノラ・ゲイが、2機の観測機とともに東北東から広島市に接近、高度9,600メートルで実戦使用では世界初のウラニウム型原子爆弾を投下。午前8時15分、同市中区大手町1丁目(旧細工町19番地)の島病院上空約580メートルで炸裂。爆発点は瞬間的にセ氏数百万度、数十万気圧となり、火球の形成とともに強力な熱線と爆風、放射線が発生。建築物も人も瞬時に破壊、殺傷された
1945/8/6
陸軍船舶練習部の「8月6日早朝に於ける広島爆撃に関する資料(極秘)」(8月8日付)「8月6日0815頃(警戒警報解除後間もなく)敵大型(B29)3機、小型(機種不明)1機高度約5,000~6,000米にて広島市に飛来し市中心部に新型爆弾3個(?)を投下せり。当該爆弾は空中にて炸裂し、之が為概ね全市の家屋倒壊し数カ所より火災発生し、市の大部を焼失せり。人員には主として爆発時の火災、(若しくは輻射熱)による火傷並に家屋倒壊の圧下による外傷及焼死、其の他家屋破壊による負傷等により相当数の死傷者を生じたり。敵の使用せる爆弾は従来のものに比すれば威力極めて大にして速やかに中央部において大規模なる対策を講ずるを要す」
1945/8/6
広島地方気象台の当番日誌。「8時15分頃B29広島市を爆撃し、当台測器及当台付属品破損せり、台員半数爆風のため負傷し一部は江波陸軍病院にて手当し一部は軽傷のため当台にて専習生が手当せり、盛んに火事雷発生し横川方面に大雨降る」
1945/8/6
広島市壊滅の第1報。(1)広島城の半地下式中国軍管区作戦室から比治山高等女学校の生徒が九州の西部軍管区と福山の連隊へ「広島が全滅に近い」と連絡(2)呉鎮守府が広島から火傷にも関わらず走って帰ってきた練習生の話を受け、東京へ「本朝8時頃広島市にB29、2、3機来襲特殊弾攻撃を受け市街大半倒壊、軍関係死傷壊滅少なからず」(3)広島市宇品の船舶司令部から東京に「特殊爆弾に非ずやとの疑問を抱き直ちに大本営に対し所見を付して状況を報告せり」(4)同市郊外の府中町、日本発送電広島変電所が高圧線に乗せる搬送電話で「新式強力爆弾にあらずやとの流説盛んなり」(5)同盟通信が日本放送協会の原放送所から岡山経由で東京本社へ電話送信。「6日午前8時16分頃、敵の大型機1機ないし2機、広島の上空に飛来し、1発、ないし2発の特殊爆弾を投下した。これがため広島市は全焼し、死者およそ17万の損害を受けた」
1945/8/6
広島市宇品にあり比較的被害が軽かった陸軍船舶司令部(暁部隊)が消火、被災者救援に当たる。負傷者を広島沖の似島に収容
1945/8/6
広島県賀茂郡西条町の傷痍軍人広島療養所救援班が広島入り。尾道市、豊田郡、山県郡などの医師会救護班も午後から夕方に救援に(「広島県史」「広島原爆医療史」)
1945/8/6
呉鎮守府が呉海軍病院福井信立少将を長とする救護隊などを派遣
1945/8/6
広島市の被災者が郊外に続々避難。約15万人が近郊や広島県内一円に避難収容
1945/8/6
広島県が県庁の非常疎開先に予定していた広島市役所、本川国民学校、福屋デパートなど焼失のため、県防空本部を広島市比治山下の多聞院に移設。7日、県庁本部を広島市東警察署に移設
1945/8/6
広島県が災害状況を内務省に報告。「6日8時20分頃特殊爆弾により全市罹災死傷者数万の見込。各官庁公共団体庁舎殆ど全焼若くは全壊」。尾道、庄原市以東を除く各警察署、地方事務所に対し「庁員職員の半数程度広島救援のこと。警防団員は3日分の食糧救援工具携帯し100名程度出動のこと」など指示
1945/8/6
NHK午後6時のニュース。「8月6日午前8時20分、B29数機が広島に来襲、焼夷弾を投下したのち逃走せり。被害状況は目下調査中」
1945/8/6
中国新聞社屋全焼、発行不能に。新聞相互援助契約に基づき朝日新聞大阪本社、毎日新聞西部本社へ代行印刷依頼。8日、島根新聞(現山陰中央新報)へも。大阪から10万部、門司から15万部、松江から1万2,000部が8日、入荷の予定
1945/8/6
トルーマン米大統領が「原子爆弾に関する声明」発表。「米国の一航空機は日本の重要軍事基地広島に一個の爆弾を投下した。この爆弾はTNT2万トンよりもさらに強力であり、戦史上最大の爆弾たる英国のグランド・スラムの2,000倍以上の破壊力を有する原子爆弾である」。記事は「リスボン11日発同盟」で終戦後の8月17日、中国新聞に掲載
1945/8/7
新聞各紙の報道。「広島を焼爆6日7時50分頃B29二機は広島市に侵入、焼夷弾爆弾をもって同市付近を攻撃、このため同市付近に若干の損害を蒙った模様」(朝日新聞東京版)。「西宮、広島暴爆」(同大阪版)。「広島市に投弾」(毎日新聞東京版)(「朝日新聞」「毎日新聞」8月7日付)
1945/8/7
広島市内の被服廠、市役所など13カ所に救護所開設。岡山県からの5班をはじめ隣県、広島県内各地から医師、看護婦の救護班。県内各警察署から救援部隊。仮設救護所は53カ所に
1945/8/7
第2総軍司令部で在広陸海軍官衙長会議。指揮系統破壊のため第2総軍が臨時指揮。「死体の収容は出来るだけ迅速に、死体処理には広島刑務所の囚人400人を使用」。在広諸部隊の指揮は広島警備担任船舶司令官の佐伯文郎中将
1945/8/7
大本営が広島市への新型爆弾攻撃を発表。「昨8月6日広島市は敵B29少数機の攻撃により相当の被害を生じたり。敵は右攻撃に新型爆弾を使用せるものの如きも詳細目下調査中なり」。「威力は軽視を許さぬものがある」(「朝日新聞」「読売報知新聞」「毎日新聞」8月8日付)
1945/8/7
高野源進広島県知事が県民、広島市民に「速やかに職場へ、戦列へ復帰を」と告諭。「被害は大なりといえどもこれ戦争の常なり、断じて怯むことなかれ、救護、復旧の措置はすでに着々講じられており、軍もまた絶大の援助を提供せられつつある。速やかに職場に復帰せよ、戦争は1日も停止することなし」
1945/8/7
ニューヨーク・ヘラルド・トリビューンが「原子爆弾に関するトルーマンの発表は今次大戦を通じて最も重要なものであると同時に、戦争以上に人類史にとって運命的な発表」と報道。「リスボン13日発同盟」で配信され、8月17日の中国新聞に掲載
1945/8/7
ローマ法王庁の機関紙ロセルバトーレ・ロマノが、広島に投下した新型爆弾を「戦争の終了を焦る破滅的手段」と非難。「かつて潜水艦に着目したダビンチは将来、不正な目的に使用されることを恐れ、計画をそのまま握りつぶしたというが、今回、使用された爆弾の発明者が新発明を葬り去らなかったのは遺憾の極み」
1945/8/7
「陸軍参謀、李E%公殿下(中佐)が広島で作戦任務遂行中に空爆により負傷、7日戦死」。宮内庁と陸軍省が8日発表。34歳。13日、賞勲局と陸軍省が「大佐に進級し功3級に叙す」と発表。8日、李E%公の戦死に殉じ、お付き武官の吉成弘中佐が自刃
1945/8/8
山陽本線広島-横川間が複線開通し、全線が復旧
1945/8/8
広島市内の比治山神社境内で軍官民の復興連絡会議。(1)被災証明書は各警備隊が発行でき、鉄道は証明書がなくても乗車可能(2)患者収容所は早急に名簿をつくり掲示(3)給食はあと1週間で打ち切り、以降は平常通りの配給制を採用-など決める
1945/8/8
内務省が新型爆弾対策として防空総本部談話を発表。新型爆弾は空中で大爆発を発し、爆風の威力は強大で非常な高熱を発する。しかし、1機でも警戒し、壕内に退避すれば被害は最小限に抑えられる(「朝日新聞」「毎日新聞」「読売報知新聞」8月9日付)
1945/8/8
陸軍省広島災害調査班(班長、島田中佐)が広島到着。「死者約3万、傷者約10万、尚増加の見込」と調査班速報第3号で打電
1945/8/8
広島に投下の「曳火高性能爆弾」を視察した中部軍の赤塚一雄参謀が大阪で語る。「広島の被害がやや大きかったのは敵の高性能爆弾を最初に受けたことと、警報解除直後であったため。高性能といってもその熱と爆風が今までの爆弾より強力というに過ぎない。われわれの想像外の物ではなく研究範囲内の所産」(8・10、「毎日新聞大阪版」8月9日付)
1945/8/8
陸軍軍医学校、臨時東京第一陸軍病院の救護・調査班が広島入り。10日、班員の山科清軍医中佐が似島で初の解剖実施。13歳の少年。15日までに女性2人を含め12人を解剖。8月17日、資料を持ち帰京。10月末、米軍医学調査団のリボー軍医中佐が資料提出を求める
1945/8/8
呉鎮守府司令部が広島空襲被害状況調査報告。軍極秘。「敵弾の本体は不明なり但し7日朝『サイパン』放送は米本国より太平洋方面ヘ『ウラン』爆弾100個を送り其の最初の1個を広島に使用せりと云ふ之が本体を国内各部総結集し至急探究する要あり」
1945/8/8
大本営の広島爆撃調査団(団長、有末精三中将)が広島入り。理化学研究所の仁科芳雄博士らも。同行した陸軍航空本部技術部が10日付報告で判決。「本爆弾の主体は普通爆薬又は焼夷剤を使用せるものに非ず原子爆弾と認む」
1945/8/9
中国新聞が9日付から代行印刷紙を配布。口伝隊を編成、市内にニュースを流す
1945/8/9
中国新聞が「新型爆弾攻撃に強靭な掩体と厚着音より速い物に注意」と呼びかけ記事。新型爆弾に対し「憤怒の血は沸る、敵の正体はまぎれなく悪魔であり鬼畜であったのだ」と戦意をあおり、防空壕の補強、防空服の諸注意を列記
1945/8/9
中国新聞が社説。「敵米の空襲は果然、苛烈となった。…広島市に対し相当強力な新型爆弾を試用し、そのため同市は短時間の間に相当の損害を受けている」。しかし、全国民が図太い神経と強靱な生活力さえあれば戦争には勝てると主張。10日にも「曳火爆弾攻撃にも我に不動の戦意あり。揺さぶり戦法に乗らず」と戦意高揚の記事
1945/8/9
テニアン島を飛び立った原爆搭載機B29、ボックスカーと観測機の2機は午前9時50分、第1攻撃目標の小倉市上空に到達した。しかし、小倉上空は雲に覆われていたため、第2目標の長崎市に向かった。同11時2分、長崎市平和公園の原爆中心碑の上空約500メートルでプルトニウム型原爆「ファットマン」が炸裂した(「広島・長崎の原爆災害」)
1945/8/9
西部軍管区司令部が午後2時45分発表。「8月9日午前11時過ぎごろ敵大型2機は長崎市に侵入し新爆弾らしきものを使用せり。詳細目下調査中なるも被害は比較的軽少なる見込み」
1945/8/9
西部軍管区が新型爆弾に対する対策を発表。「敵の今回広島市、長崎市に使用した新型爆弾はその威力強大ではあるが処置よろしきを得ればこれに対する防衛は完全に可能である」。特殊爆弾の威力は「爆風と熱波」であるとし、蓋付きの防空壕整備を呼びかけ。根本策は「都市の疎散と洞窟化」と述べる
1945/8/9
原子爆弾使用とソ連参戦に伴い、宮中で午前10時半から午後1時まで最高戦争指導会議。続いて断続的に臨時閣議。午後11時55分から10日午前3時まで御前会議。「ポツダム宣言」受諾決める。8月16日付中国新聞に掲載され、紙面に初めて「原子爆弾」の文字
1945/8/9
広島市内で応急措置として広島駅-宇品間に臨時乗合自動車が運転開始。市内電車は依然、不通
1945/8/9
ロンドン発のエキスチェンジ通信が「9日のロンドン朝刊紙が一般民衆は新型爆弾を非難、との記事、投書を掲載」と伝える
1945/8/10
日本政府が「米国の新型爆弾による攻撃に対する抗議文」をスイス政府を通じて米政府に送付。赤十字国際委員会にも説明。抗議文「従来のいかなる兵器にも比しおよばざる無差別性残虐性を有する本件爆弾を使用するは人類文化に対する罪悪なり、帝国政府はここに自らの名において、かつまた全人類および文明の名において米国政府を糾弾するとともに即時かかる非人道的兵器の使用を放棄すべきことを厳重に要求する」
1945/8/10
日本政府が中立国スウェーデン、スイスを通じ連合国へポツダム宣言受諾を申し入れ(「近代日本総合年表」)
1945/8/10
中国新聞がコラム「防長余韻」で、広島市の新型爆弾について「かれこれと詮索することは正しいことではない、なぜならそれが戦争だからである。県下(山口)に広島から罹災者が続々入りつつある。各人は一部的な現象やデマに惑わされるなかれ」
1945/8/10
京大第1次調査班(杉山繁照医学部教授ら6人)、大阪大調査団(浅田常三郎教授ら6人)などが相次ぎ広島入り
1945/8/10
広島市内の陸軍補給廠で陸海軍合同特殊爆弾研究会開催。「本弾は爆弾でもなく、焼夷弾でもない。原子弾又は同種類のものと考える」と結論
1945/8/10
広島市内の比治山国民学校に戦災孤児収容保育所を設置
1945/8/10
広島市内の炊き出しが学校区ごとの配給に切り替え。親を失った孤児は比治山国民学校の収容所へ。銀行預金、戦災保険金は通帳がなくても確認が出来る限り、避難先のどこの銀行でも支払い可能に。広島市内は日本銀行が各行を代表し払い出し
1945/8/10
広島鉄道局が罹災者の無賃輸送期間を5日間延長し15日まで取り扱うと発表
1945/8/10
陸海軍、各県応援隊が到着し長崎県、長崎市と一体となって死体の処理、被災者の救済、施設の復旧活動などを展開。秋月辰一郎医師が廃虚の浦上第一病院で診療を開始(「長崎年表」)
1945/8/11
長崎市が市内各所に臨時事務所を設け、被災証明書を発行(「長崎年表」)
1945/8/11
救護所が設けられた国民学校や寺に多数の負傷者が殺到(「長崎年表」)
1945/8/11
広島市が復興のため残留学徒の動員を決め、広島文理科大広場で「学徒決起隊」を結成
1945/8/11
情報局、防空総本部が新型爆弾の防衛心得16項目を発表。敵機が1機といえども油断は禁物、敵大型機が近づいたら1機でも退避しなければならない」
1945/8/11
米「土曜文学評論」主筆のノーマン・カズンズ氏が、誌上で「核戦争時代を警鐘し、世界政府を」(1988・7・13)
1945/8/12
広島市の食糧無料配給が町内配給に切り替え。郡部から食糧援助、憲兵司令部前ではとっておきの冷凍ミカンも無料配布
1945/8/12
中国新聞に、長崎に投下された「落下傘付き曳光新型爆弾も備えあれば大丈夫」の記事。「新爆弾は大体高度500メートルぐらいまでふわふわと落下し突如大音響を伴って爆発する。落下傘を認めてから爆発まで1、2分の余裕がある。恐れず慌てず『1億総洞窟生活』に徹することだ」(8・12)
1945/8/12
アトリー英首相が「われわれは(原子爆弾の)発明が将来、平和愛好諸国の平和に貢献し、全世界に測り知れぬ破局を巻き起こす代わりに世界繁栄の恒久的源泉となることを心から祈る」と声明。「ストックホルム15日発同盟」で、ロンドン来電として配信。8月17日付中国新聞に掲載
1945/8/12
長崎医大第11医療救護隊(隊長、永井隆・助教授ら隊員11人)が長崎市郊外の三ツ山地区で、被爆者らを巡回診療(「長崎年表」)
1945/8/13
米サンフランシコ・クロニクル紙が原子爆弾に抗議する投書を数通掲載。「今やわれわれは他人を戦争犯罪人と呼ぶ資格がなくなりました。われわれ自身が戦争犯罪者になったからです。われわれは少なくとも10万人の人間の殺りくを黙認したのです」「私は孤立主義者でも平和主義者でもありませんが、私の心は無力な国民に対してかような武器を使用することに否を訴えます」。原爆非難の投書に対し、8月16日から18日にかけ同紙に反論相次ぐ
1945/8/13
NHK長崎放送が夕方から放送を再開(「長崎年表」)
1945/8/13
九州大理学部物理学教室の篠原健二教授が爆心地付近の土砂を採取調査、放射能を検出。長崎に投下された爆弾が原子爆弾であることを確認(「長崎年表」)
1945/8/14
広島市内5カ所に簡易保険、郵便貯金の相談所開設、現金の支払いも始める
1945/8/14
同盟通信が「ストックホルム14日発」で、米戦時情報局発表の「原子爆弾生産に不可欠なウラニウム」の記事を配信
1945/8/14
米海軍省が発表。「重巡インディアナポリスが最近、比島方面の海戦で撃沈された。同艦は7月16日、原子爆弾に必要な原料資材を搭載してサンフランシスコ港からグアム島に急航、荷揚げを完了したのち海戦に参加」
1945/8/14
広島市の被災直後、現地調査班の一員として同市に入った理化学研究所の仁科芳雄博士が「特殊爆弾は原子爆弾であったことが確実になった。最少量のウランを使用した場合に発生するエネルギーは普通火薬1万トンないし2万トンに匹敵」と談話を発表
1945/8/14
中国新聞が「この戦争絶対に勝つ。精神戦にくじけるな。勝利の道は国民敢闘にある。今こそ総力を発揮せよ!」の記事
1945/8/14
中国新聞が7月20日のエキスチェンジ通信社ロンドン電「英上院の長距離兵器に関する討議」を伝え、「非人道長距離兵器とは原子爆弾のことだ」と報道
1945/8/15
広島原爆の威力について中国新聞が「被害の総合判断」掲載。(1)爆発して火熱線を放射するが、影響範囲は概ね8キロ(2)白い着衣は熱線に対し確実に有効
1945/8/15
天皇が「大東亜戦争終結」の詔書を発す。「…世界ノ大勢亦我ニ利アラス加之敵ハ新ニ残虐ナル爆弾ヲ使用シテ頻ニ無辜ヲ殺傷シ惨害ノ及フ所真ニ測ルヘカラザルニ至ル…」
1945/8/15
終戦に伴い中国新聞に「非道狂暴の新爆弾、戦争努力を一切変革」の記事。「残忍狂暴な新兵器原子爆弾はついにわれらの戦争努力の一切を烏有に帰せしめた」
1945/8/16
英カンタベリー寺院のフィッシャー大僧正が英上院で原子爆弾投下を非難。「人間の良心が烙印をおされた。良心がこの痛手から容易に回復するとは思われない」
1945/8/16
チャーチル英首相が下院で原子爆弾について演説。「ニューメキシコの原子爆弾実験は夢想だにできなかったほどの成功を収めた。但し余は原子爆弾の秘密を今のところソ連その他いかなる国にも明かさぬということにトルーマン米大統領と意見が一致した。それは米英両国の単なる希望ではなく、全世界の安全のためである」。原子爆弾の使用については「日本との戦いにおいてさらに100万の米国人と23万の英国人の生命を犠牲に供するよりはむしろ原子爆弾を使用するにしくはない。余とトルーマンはポツダム会談で、従来と比較にならぬ威力を有する爆弾を日本に対し使用するとスターリン議長に伝えておいた」
1945/8/17
ニューヨーク・ヘラルド・トリビューンが原子爆弾の公開を要求。「建設的な政策と同様、破壊的な新兵器もまた広く世界に公開、新たな国際社会を形成する一助にしなければならない」
1945/8/19
ロンドン北部、聖アルバンス寺院のシー・シクネス正牧師が戦勝感謝祈祷会を禁止し、原子爆弾の非人道性を批判。「日本に対しての原子爆弾の使用はすでに必要なくなっていた」
1945/8/20
米の有力宗教家、教育家34人がトルーマン大統領に原子爆弾の生産禁止指令を出すよう要請
1945/8/20
広島県庁を広島県安芸郡府中町の東洋工業本社に移す
1945/8/21
広島県が内務省などに「8月6日広島市空襲被害並に対策措置に関する詳報」を報告。死者3万2,959人、重傷者1万3,965人、軽症者4万3,517人、行方不明9,591人、罹災者19万3,459人。「死者はこの他、倒壊家屋の下敷になっている者などを含めると6万人を超えると思料」(「広島県史」)
1945/8/23
中国新聞が初めて広島被災の写真掲載。「瞬時にして焦土と化し煙突一本のみ残った広島市街の一部」
1945/8/23
原爆製造に従事した英学者の首班サー・ジョージ・トムソン氏が「原子エネルギーを車や飛行機に利用するには100年はかかる」と述べる
1945/8/23
米シカゴ・トリビューン紙が「論議呼ぶ原爆犠牲者の遷延致死」と題し、被爆による原因不明の死について報道。「8月22日の東京放送は原爆犠牲者の原因不明の死を伝えているが、米国内では肺炎説と放射線説が対立している」
1945/8/25
広島県が原爆の人的被害をまとめ内務省警保局などに報告。死者4万6,185人、行方不明1万7,429人、重傷1万9,691人、軽傷4万4,979人、罹災者23万5,656人。しかし、正確な実態は把握できず「行方不明は死亡とみなさざるを得ず」「ウラニウムの関係で死亡する重傷者も多い」ため「死亡者数は11万を超えると想像」と補足
1945/8/25
米カーチスライト航空機会社が、広島に原爆を投下したB29には可逆節プロペラが装置されていたと発表。補助ブレーキの働き
1945/8/27
中国新聞に「残された『原子爆弾』の恐怖」として「今後70年は住めぬ戦争記念物に広島・長崎の廃虚」の記事。「現在までの広島の死者は6万人を超し、負傷者は12万人以上。今なお負傷者の中から次々と死者が出ている。ウラニウムの特殊作用によって血球を破壊し、呼吸の非常なる困難を伴って悶死する。米側においても『広島、長崎は今後70年間は草木はもちろん、一切の生物は生息不可能』と放送している」
1945/8/29
原爆被災当時外傷がなかった人にも致命的な事例が出ているため、九州大の沢田藤一郎博士らが長崎に向かう
1945/8/30
都築正男東大医学部教授ら東大調査団が広島市入り
1945/8/31
英陸軍省が発表。「駐日スイス公使は、8月6日の広島原爆攻撃による連合軍捕虜の死傷者はなかったと日本政府から連絡を受けた」
1945/8/31
中国新聞が広島市の原爆によるその後の被害状況を伝える。「依然として少なからぬ人たちが毎日息を引き取ってゆく。昨日まで元気で出勤していたものがポクリと死んでしまったという話が実に多い。詳しい症状は分からないが大抵耐えがたい疲労感の後に発熱し、中には敗血症のように歯茎からも唇からも血が流れ出るのがあるが殆ど例外なしに頭髪がボロボロ抜け出すと命は危ないといわれる」(8・31)
1945/8/31
昭和天皇が広島、長崎市に侍従を派遣。惨状を視察し救護関係者を激励するよう指示
1945/8/--
広島市の被害を調査した防空総本部技師、鳥居捨蔵氏が調査結果まとめる。「敵機は広島侵入に際し、まずエンジンを停止、高度8,000メートルで原子爆弾投下、約550メートルで炸裂」。距離別の人的被害状況なども示す(8・23)
1945/8/--
中国新聞が原爆被害を報道。「広島市の死者は6万以上を数え、なお火傷程度の市民も続々死亡している。負傷者は10万以上に達し、罹災者20万以上と算せられる。長崎は死者1万以上、負傷者2万以上、罹災者9万以上」
1945/8/--
戦災死した粟屋仙吉広島市長の後任に、土木請負業藤田組社長、藤田一郎氏が名誉市長就任を受諾

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