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証言 記憶を受け継ぐ

『記憶を受け継ぐ』 木村秀男さん―紙芝居に刻む 生き地獄

木村秀男(きむら・ひでお)さん(80)=広島市西区

町も体も焼ける。大人になって思い出して

 自らの被爆体験を基に紙芝居(かみしばい)を作って、小学校や幼稚園で紹介している木村秀男さん(80)。あの「生(い)き地獄(じごく)」を二度と繰(く)り返(かえ)してはならない―。やけどの痕(あと)が今も両腕(りょううで)や首に残る中、次世代にメッセージを送り続けています。

 当時は、草津国民学校(現草津小、広島市西区)高等科1年の12歳。8月6日は大潮で、朝、漁師だった父の手伝いをした後、小網(こあみ)町(現中区)に建物疎開(そかい)の作業に行くため、集合場所の学校へ行きました。

 木村さんを含(ふく)む高等科の児童167人は白い半袖(はんそで)シャツにズボン、麦わら帽子(ぼうし)姿。観音(かんのん)(現西区、爆心地から1・2~1・7キロ)辺りの川土手を歩いていた時でした。3機のB29のうち1機がキラッと光るものを落として行きました。その瞬間(しゅんかん)、目の前がピカッと光って周りが暗くなったのです。

 両手で頭を抱(かか)えてうずくまった木村さん。数秒後、焼け付くような高温に襲(おそ)われました。どこへ逃(に)げていいか分からず、みんなで学校に戻(もど)ろうとしました。履(は)いていたわらじは、なくなっていました。

 高須(たかす)(現西区)の用水路で顔や腕、足を洗っていて驚(おどろ)きました。顔の皮がつるっとはげたのです。両腕も、皮膚(ひふ)が垂れ下がりました。

 被爆の数日後、脱毛(だつもう)や嘔吐(おうと)にも襲われました。「死ぬんじゃないか、と毎日心配で眠れなかった」。両腕、顔、首のやけどは、治るのに半年以上かかりました。できた皮膚が張って、野球のボールも握(にぎ)れません。無理をするとすぐに裂(さ)けて出血しました。被爆の3~5年後には、やけどの痕は「ビフテキのように」盛り上がり、ケロイドになりました。

 原爆の様子を描くようになったのは、10年ほど前、70歳のころ。原爆資料館などが原爆の絵を募集(ぼしゅう)していたのがきっかけです。木村さんの作品は高く評価され、西応寺(さいおうじ)(中区中島町)には陶板(とうばん)画が展示してあります。

 原爆紙芝居は、2007年ごろから作り始めました。自分の被爆体験だけでなく、5歳上で広瀬国民学校(現中区)で被爆死した兄や、地元の国民義勇隊など核兵器と戦争をモチーフにした作品を七つ作りました。7作目は、第3次世界大戦がテーマです。

 「戦争したら町も体も焼け、お父さん、お母さんとも別れて独りぼっちになるんよ。だから絶対、戦争をしちゃいけん」。子どもに紙芝居を見せて、そう語(かた)り掛(か)けます。「大人になった時、『紙芝居のおじさんが言いよったのお』って思い出してほしい」と願っています。(二井理江)



◆学ぼうヒロシマ◆

国民学校

軍事主義教育進める

 今の小学校に当たる学校は戦時中、「国民学校初等科」と呼ばれていました。

 1941年の「国民学校令」で制度が変更(へんこう)されました。それまでの尋常(じんじょう)小学校(6年間)は国民学校初等科(同)に、高等小学校(2、3年間)は国民学校高等科(2年間)になりました。

 国民学校令は、軍事主義教育の色合いが濃(こ)いものでした。尋常小学校と国民学校初等科の両方に通った、広島市西区の木村秀男さん(80)は「国民学校になると、『帝国(ていこく)陸海軍、日本の兵隊さんは戦場へ出て行き、お国のために死んで帰ります。身をささげます』と習うようになった」と振(ふ)り返(かえ)ります。

 子どもたちは、国民学校初等科で6年間学んだ後、国民学校高等科や中等学校(中学校、高等女学校、実業学校)などに進みました。

 終戦後、47年に教育基本法、学校教育法ができ、今の小学校(6年間)、中学校(3年間)になったのです。

◆私たち10代の感想◆

死を無駄にできない

 「原爆の惨状(さんじょう)を二度と繰り返してはならない」。この強い気持ちが子どもに伝わるようにと、木村さんは絵を描いています。悲惨(ひさん)な光景を描くことをためらいながらも、犠牲者(ぎせいしゃ)の死を無駄(むだ)にしてはならない、と描き続ける姿勢を見て、私たちには被爆者の思いを受け継ぐ義務があると思いました。(高2・井上奏菜)

日常塗り替えた3色

 紙芝居には被爆前の日常も描かれていました。草木の緑、青い空など鮮(あざ)やかな色であふれていました。しかし被爆後は黒、灰色、赤の3色と人々の叫(さけ)ぶ顔。色で平和を表現できると知りました。

 被爆者の声を直接聞けなくなる日が必ず来ます。絵は原爆の悲惨さを伝える大きな役割を担うと思います。(高1・木村友美)

◆編集部より

 「生き地獄だった」。多くの被爆者から聞かれる言葉です。何となく分かるような、分からないような。それを木村秀男さんは、「目の前の人が亡くなっていく。助けを求めても助けがない。あわれな最期。地獄のようなところだった」と表わしました。「戦争したら町も体も焼け、お父さん、お母さんとも別れて独りぼっちになるんよ。だから絶対、戦争をしちゃいけん」とも。とても分かりやすい言葉を使って、淡々と話します。

 悲惨な被爆体験をしたからこそのシンプルな表現。皆さんも、機会があれば木村さんの紙芝居を見て、話を聞いたらいいと思います。想像力を働かせながら、原爆の被害を考えるいい機会になるはずです。(二井)

(2013年2月11日朝刊掲載)

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