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記憶を受け継ぐ

『記憶を受け継ぐ』 先川ハナコさん―友人 見つけられぬまま

先川(せんかわ)ハナコさん(86)=東広島市

生かされている。だからこそ元気に頑張る

 前の日の朝見た街並みは、全て無くなっていました。広島駅(現広島市南区)で目に入ってきたのは、何もない中、煙(けむり)だけが立ち上っている光景。友達や、勤めていた病院の先生を捜(さが)して2日間、歩き回りました。しかし、見つけることはできませんでした。

 当時、広島市大手町6丁目(現中区)にあった小児科(爆心地から約700メートル)に看護師として住み込みで働いていた先川ハナコさん(86)。9月から広島赤十字病院で従軍看護婦の研修を受けるのに布団が必要だったため、母久子さんに相談しようと、8月5日夜、勤務後に実家の広島県吉土実(よしとみ)村(現東広島市)へ戻る予定でした。

 ところが、間違(まちが)えて芸備線に乗車。その日は向原駅(現安芸高田市)のホームで夜を明かしました。6日に始発の列車で広島駅へ。午前8時ごろ、山陽線に乗って広島駅を後にしました。

 瀬野駅(現安芸区)を過ぎた頃(ころ)です。「ピーッ」と耳が裂(さ)けるような感じがしました。他の乗客が「爆弾(ばくだん)がどっかに落ちたんじゃ」と騒(さわ)いでいます。空を見ると米軍の爆撃(ばくげき)機B29が3機、呉方面に飛んで行きました。

 西条駅(現東広島市)から走って帰宅すると、母と弟智(さとし)さん(13)がびっくりして先川さんを迎(むか)えました。畑で草取りをしていた2人。上半身裸(はだか)で広島に背を向けていた智さんが8時15分、突然(とつぜん)「熱い」と叫(さけ)びました。きのこ雲が見えました。その後、消防団から「広島全滅(ぜんめつ)」の知らせを受け、先川さんを捜しに広島へ行こうとしていたのです。

 翌7日、山陽線に乗って広島に向かいました。向洋駅(現広島県府中町)で列車が止まっていたため、そこから広島駅までは線路を歩いて行ったそうです。

 病院は跡形(あとかた)もなく焼けていました。院内にあった鉄の風呂釜(ふろがま)だけが焼け残り、場所が分かる程度。建物疎開作業や勤務をしていたはずの同僚(どうりょう)4人と先生の姿はどこにもありません。市内を歩いて捜し回っただけでなく、先生の自宅があった府中町の収容所にも行きました。

 いったん実家に戻り、8日は広島に行きました。被爆して止まったままだった路面電車の中を何台も調べました。頭蓋骨(ずがいこつ)がたくさん転がっていましたが、誰も見つからなかったのです。

 戦後も国立広島療養所(現東広島医療センター)や西条中央病院などで、今年1月まで看護師として働き続けました。「友達、先生の分も生かされている。だからこそ元気で頑張(がんば)って生きたい」と話します。(二井理江)



◆学ぼうヒロシマ◆

B29

長く高く飛ぶ「要塞」

 太平洋のサイパン島近くにあるテニアン島から原爆を運び、広島、長崎に投下したのが、米国の爆撃機(ばくげきき)B29です。B29は、日本各地の都市を空襲(くうしゅう)する際にも多く使われました。

 B29の開発は、1939年に米国が始めました。それまでの爆撃機に比べて飛べる距離(きょり)が長く、高い高度を飛行できるのが特徴(とくちょう)。「超空(ちょうくう)の要塞(ようさい)」と呼ばれていました。

 米国は、日本の本土を爆撃するため、B29を中国の成都に配備。44年6月に北九州を初めて空襲しました。しかし成都からでは、B29でも九州の一部までしか届かず、首都圏や京阪神は攻撃できません。そのため、太平洋のサイパン、グアム、テニアンなどの島々を拠点にしました。

 B29の行動範囲(はんい)は、東北地方の中部まで広がり、米国は44年11月から関東、関西、中部の工場を攻撃するようになりました。45年3月からは無差別爆撃を開始。多くの都市が、B29が落とす焼夷弾(しょういだん)攻撃を受けました。B29は空襲の代名詞として使われるようになったのです。

◆私たち10代の感想◆

生きる意志伝えたい

 先川さんは、直接被爆を間一髪(かんいっぱつ)で免(まぬが)れたことを「運命だった。友達の分まで生きたい」と語っていました。その言葉からは、人の分まで生きる強い責任感が感じられます。

 いじめなどで自殺する人がいる今、先川さんの抱(いだ)いている生き続けることへの意志を、もっと多くの人へ伝えていきたいです。(中3・谷口信乃)

水求める声 惨状思う

 足音が聞こえただけで「水をください」と求める人々の声が、先川さんの耳に今も残っているそうです。原爆投下後の広島がどれだけ悲惨(ひさん)な状況(じょうきょう)だったのか分かりました。

 核兵器(かくへいき)が二度と使われないようにするためにも、私たちは平和な世界を築き上げなければならないと思いました。(高1・了戒友梨)

◆編集部より

 原爆が落とされた直後の7、8日の2日間、広島市内を歩き回った先川さん。「私が受けた放射線量はどのくらいあるんかねえ」と気に掛けます。というのも、2011年3月に起きた福島第1原子力発電所の事故による各地の放射線量が報道されたからです。「ヒロシマとの差がどのくらいあるのか知りたい」と話します。

 これまで同僚の看護師に被爆体験を話したことはありましたが、中高生に話したのは今回が初めてでした。「若い人の命を奪った戦争、原爆。戦争がいかに怖いかを知り、絶対に二度と戦争をしてほしくないから」と思いを語ってくれました。「自分の国を大きくしたい、なんて考えず、お互いの国が助け合って仲良くしてほしい」と願います。(二井)

(2013年5月13日朝刊掲載)

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