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記憶を受け継ぐ

『記憶を受け継ぐ』 戸田照枝さん―友達救えず…自責の念

戸田照枝(とだ・てるえ)さん(81)=廿日市市

心にしまっていた「あの日」語るのが責任

 戸田(旧姓日浦)照枝さん(81)にとって、原爆は誰(だれ)にも触(ふ)れられたくない記憶でした。あの日、一緒(いっしょ)にいた友達を助けられなかった自分を責(せ)めながら、68年間生きてきたのです。

 広島市宇品町(現南区)の生まれ。兵士を戦地に送り出す旧宇品港が近くにあり、よく見送りに行っていました。一点を見据(みす)えて行進する兵士の姿(すがた)を見て怖(こわ)いと思ったこともあります。2人の兄は戦死。戦争一色の子ども時代を過ごしました。

 被爆当時は、第三国民学校(現翠町中)の2年生。13歳でした。1945年春から、国鉄で通信関係の研修を受けていました。広島市内外の同い年の女子が集められ、兵士になった男性の代わりに働けるよう、勉強していたのです。

 8月6日朝、広島駅(現南区)のすぐ近くに集合し、みんながそろうのを待っていました。爆心地から約1・8キロ。友達が戸田さんの髪(かみ)を編んでくれている時です。誰かが「あっ、B29」と叫びました。その瞬間(しゅんかん)、ピカッと光り、戸田さんは爆風で吹(ふ)き飛(と)ばされ、意識を失いました。

 「助けてお母さん」「熱いよ」。泣(な)き叫ぶ声で意識を取り戻(もど)し、がれきからはい出しました。髪を編んでくれていた友達は、目を開けたまま大の字で倒(たお)れています。ほかの友達は生き埋(う)めになり、うめき声を上げていました。しかし子どもの力では助けることも、連れて逃(に)げることもできませんでした。迫(せま)る火災をくぐり抜(ぬ)け、必死で逃げました。

 午後7時ごろになって、宇品町の自宅(じたく)にたどり着きました。家は壊(こわ)れていたため、無事だった母と2人で、しばらく野宿しながら暮(く)らしました。嘔吐(おうと)や下痢(げり)、髪が抜けるといった急性症状(しょうじょう)も出たそうです。

 戦後、国泰寺高(中区)を卒業。舟入高(同)の事務員を経て「貧しい子どもの役に立ちたい」と、保育士にもなりました。27歳で結婚(けっこん)し、小中学校の事務員をしながら3人の娘(むすめ)を育てました。

 心にしまっていた「あの日」を語り始めたのは20年ほど前から。キリスト教女子青年会(YWCA)の活動に参加していて、熊本のメンバーが原爆をテーマにした朗読劇(ろうどくげき)を上演するのを見て、衝撃(しょうげき)を受けました。「被爆者の私が語らないのは無責任(むせきにん)だ。勇気を出して平和の大切さを伝えたい」

 それから修学旅行生たちに被爆体験を証言するようになりました。「誰もが生まれてきたことに意味がある。一生を大切にしてほしい。そして、自分と同じくらい他の人の命も大事にしてほしい」。子どもたちに、そう訴(うった)えています。(増田咲子)



◆学ぼうヒロシマ

宇品港

兵士や物資送り出す

 広島市南部にあった宇品港は1884年、当時の広島県令(知事)、千田貞暁(さだあき)氏(1836~1908年)が建設を始めました。「広島の発展(はってん)のために良い港を造らなければならない」と考えたからです。

 カキやノリが採れなくなるといった住民の反対や、暴風で堤防(ていぼう)が壊(こわ)れるなどの困難(こんなん)がありましたが、1889年に完成しました。途中で建設資金が足りなくなり、千田氏が私財(しざい)を出したとも言われています。

 幾つもの戦争で、重要な役割(やくわり)を果たしました。94年8月、日清戦争が始まり、兵士や物資を戦地へ送り出す港として使われました。同月、広島駅まで結ぶ宇品線(1986年廃止(はいし))が、わずか17日間で建設されました。その後、日露戦争や第2次世界大戦でも、この港から多くの兵士が戦地へ向かいました。

 32年には、広島港に名称変更(めいしょうへんこう)されました。被爆直後は、けが人を似島(現南区)の臨時(りんじ)収容所などに運び出しました。

 今の旅客ターミナルは、以前より西にあります。

◆私たち10代の感想

戦争ない世界つくる

 戦死したお兄さんの骨は帰ってきませんでした。戸田さんのお母さんは、戻(もど)ってきた木の箱を抱(だ)きしめて泣いていました。僕はこんなに悲しい体験をしたことはないけど、本当に生きるのがつらかったと思います。大人になったら、話し合いで争い事を解決できるような戦争のない世界をつくりたいです。(小4・植田耕太)

身近な所から平和を

 戸田さんは、友達を残して逃(に)げたことを今でも申(もう)し訳(わけ)なく思っています。でも、戸田さんのように生き残った人たちが、周りの人の死や、被爆者に対する差別を乗(の)り越(こ)え、互(たが)いに協力し合ったからこそ広島は復興しました。次は私たちが平和な世界をつくるため、身近な所から争いをなくしていきたいです。(中2・正出七瀬)

◆編集部より

 戸田照枝さんが生まれ育った宇品町(現広島市南区)を歩くと、広島が軍都だった歴史がよく分かります。元宇品小校長で、宇品の歴史に詳しい増田義法さん(75)に、旧宇品港周辺を案内してもらいました。「ここから戦地へ送られ、二度と日本の地を踏むことができなかった兵士がたくさんいる」と増田さん。今の宇品波止場公園には、軍用桟橋の跡が残っています。

 戦争中、兵士を送り出す拠点だった旧宇品港と広島駅を結ぶ旧宇品線(廃線)沿いには、たくさんの軍事施設がありました。波止場公園の近くには、兵士の食糧や軍馬の飼料を保管した糧秣支廠倉庫跡もあります。被爆建物でもある千暁寺は、戦死した兵士の遺骨を遺族に引き渡す場所になっていたそうです。

 広島に原爆が落とされた理由の一つが、重要な「軍都」であったということ。「戦争とともに広島の発展を支えた宇品。一方で、それが災いして原爆にも遭った。宇品を訪れ、広島の歴史を知ってほしい」と増田さんは話していました。

(2013年9月23日朝刊掲載)

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