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記憶を受け継ぐ

『記憶を受け継ぐ』 藤重忠子さん―9日朝まで負傷者介抱

藤重忠子(ふじしげ・ただこ)さん(88)=広島市西区

怖さなかった。人間としての心失っていた

 藤重(旧姓曽川)忠子さん(88)は20歳の時、爆心地から約1キロの北榎町(現広島市中区)にあった広島中央電話局西分局で被爆しました。大きなけがはなく、原爆投下3日後の9日朝まで西分局に残り、負傷(ふしょう)者に付き添(そ)っていました。「水、水、水」。皮膚(ひふ)が焼けただれた人たちのうめくような声が、今も耳に残っています。

 女学校卒業の数年後、女子挺身(ていしん)隊として電話局で働き始めました。原爆が落とされた時は西分局で事務を担当(たんとう)。あの日は、建物の3階にいました。仕事で使う紙を取りに行こうと立ち上がり、窓(まど)に背(せ)を向けた瞬間(しゅんかん)でした。防火シャッターが外れるほど、すさまじい爆風に背後(はいご)からたたきつぶされたのです。

 覆(おお)いかぶさったシャッターから、やっとの思いで抜け出しました。大型金庫の下敷(したじ)きになった同僚(どうりょう)を助け出し、無我夢中(むがむちゅう)で外へ出て避難(ひなん)。同僚はけがをしていたので、救急袋を取りに西分局へ戻(もど)るなど、必死で介抱(かいほう)しました。

 その同僚を連れ、焼け残った西分局へ再び戻って宿直室に寝(ね)かせました。そこにも、周辺から逃(に)げてきた人や職場の仲間たちがいました。一晩中、けが人にたかるハエを追(お)い払(はら)いました。「怖(こわ)い、悲しいという感情はなかった。人間としての心を失っていた」と振(ふ)り返(かえ)ります。

 7日朝、大芝町(現西区)の自宅(じたく)近くの畑で被爆した母が、父と一緒に捜(さが)しに来ました。しかし「この人たちを放って帰ることはできない」と告げ、すぐには帰りませんでした。

 同僚は、迎(むか)えに来た両親が連れて帰りました。「命の恩人です」と藤重さんに何度も頭を下げたそうです。

 忘(わす)れられないのは、頭に重傷(じゅうしょう)を負った少女が、遺体を積(つ)み込(こ)むトラックで運ばれたこと。「待ってください。まだ生きています!」と兵隊に訴(うった)えても、聞き入れてもらえませんでした。トラックが去るのと入れ違いで、少女の母親がやって来ました。「あっちへ逃げて行かれました」。どうしても、本当のことは言えませんでした。思い出すたび、今でも胸(むね)が苦しくなります。

 その後、藤重さん自身も血便や脱毛(だつもう)、体に黒い斑点(はんてん)が出るなどの症状に苦しみました。「あの時、いっそ死んでいたらよかった」。原爆を落とした米国を恨(うら)んでいました。

 1948年、書道の師匠(ししょう)と結婚(けっこん)しました。夫は91年に死亡。今年8月、がんの手術を受けましたが、四男の家族と元気に暮(く)らしています。

 2005年には、被爆時の惨状(さんじょう)を描いた8枚の絵を原爆資料館(中区)に寄せました。「『戦争は絶対にいけない』と次の世代に伝えたい。平和は人と人とが仲良くすることで生まれる。みんなが思いやりの心を持ってほしい」と願っています。(増田咲子)



◆学ぼうヒロシマ

原爆の絵

資料館、4000点以上所蔵

 大やけどをして手を前に突(つ)き出して逃(に)げる人、赤ちゃんを抱(だ)きかかえたまま亡(な)くなった母親、建物の下敷きになった子ども…。被爆体験を基に「市民が描いた原爆の絵」は、原爆資料館(広島市中区)に寄せられ、4256点(9月末現在)が所蔵(しょぞう)されています。

 「助けてあげられなくてごめんなさい」などの言葉や、被爆当時の惨状を説明する文章も添えられています。

 「市民の手で原爆の絵を残そう」。被爆者の描いた1枚の絵をきっかけに、NHKが1974~75年に呼(よ)び掛(か)け、2225点が寄せられました。

 2002年には広島市や中国新聞社なども呼び掛けに加わり、新たに1338点が集まりました。こうした募集(ぼしゅう)以外でも、絵は資料館に寄せられました。

 描いた人の承諾(しょうだく)が得られた絵は、資料館のホームページで公開しています。館内では毎年、「母と子」や「黒い雨」などのテーマで展示(てんじ)もしています。学芸員の高橋佳代(かよ)さん(30)は「絵に込められた市民の怒(いか)りや悲しみ、死者を悼(いた)む気持ちを感じ取ってほしい」と話しています。

◆私たち10代の感想

親の大切さを再確認

 大切な友人を失い、原爆による病気に苦しみながらも、必死に生きてきた藤重さん。そんな藤重さんから「命をくれた親に感謝して」と言われ、親のありがたみを再確認(かくにん)しました。育ててくれた親がいなければ、今の幸せはないからです。今まで以上に親を大切に思い、素直に「ありがとう」と伝えたいです。(中2・見崎麻梨菜)

戦争の恐ろしさ理解

 藤重さんの被爆体験を聞いて涙(なみだ)が出ました。人間としての心を奪(うば)う戦争の恐(おそ)ろしさを知り、戦争は絶対に嫌(いや)だと純粋(じゅんすい)に思いました。「人を殺す戦争に正義はない」という言葉をしっかり胸(むね)に刻(きざ)みたいです。

 学校で取り組んでいる平和記念公園の案内でも、藤重さんから聞いた原爆の悲惨(ひさん)さを伝えたいです。(高2・木村友美)

◆編集部より
 広島市中区の原爆資料館東館の地下で、「炎の中に閉じ込められて」と題した企画展が開かれています。多くの被爆者らによって描かれた絵の中に、藤重さんの作品も「映画ではない 現実だ!」のタイトルで展示されています。火に追われて川へ落ち、流される人々-あの日の惨状を捉えています。ことしの12月25日まで見ることができます。

 藤重さんはこのほかに7枚の絵を資料館に寄贈しました。年配の女性の胸に刺さった1㍍50㌢くらいの棒を夫が抜き取ろうとしている様子、やけどを負って逃げる馬、たくさんの遺体…。爆心地から約1㌔で被爆した藤重さんが目にした被爆直後の光景が、生々しく描かれています。

 「学ぼうヒロシマ」で紹介したように、資料館は「原爆の絵」を4千点以上所蔵しています。中には、「つらい作業だけど、みんなに知ってもらいたい」と、嘔吐しながら絵に向かった人もいるそうです。8月6日当日の市中心部の写真はわずかしかないと言われているだけに、原爆の絵は、きのこ雲の下の実態を、私たちの目に焼き付けます。(増田)

(2013年10月28日朝刊掲載)

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