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検証 ヒロシマの半世紀

検証 ヒロシマ 1945~95 <6> 原爆乙女

■報道部・西本雅実

 原爆は一瞬のうちに人の命を奪っただけではない。生き残った者にも過酷な生を強いた。とりわけ孤児や乙女の戦後は苦難に満ちた日々であった。広島市民の多くが平穏な生活を手に入れた後も、その人たちには「原爆」の二文字が重くのしかかった。心身とも深い傷を負い、逆境に立ち向かいながら、孤児や乙女の多くは世間の心ない視線の中で、いつしか口を閉ざすようになった。

 「今さら話して何になる」「原爆とマスコミはもうこりごり」。かつて原爆孤児、原爆乙女と呼ばれた人たちに接触すると、取材を拒む人が際立った。50年たっても、胸にうずく傷はいやされていない。こうした中であえて、日本と韓国で2つの戦禍を生き抜いた一人の孤児と、米国に渡りケロイド治療を受けた「ヒロシマ・ガールズ」を追った。最も弱い立場にある者をさいなむ戦争、原爆を憎むからである。


異国で触れた人の愛 原爆乙女を見守る横山初子さん

 最大4000度。原爆の熱線は若い女性たちも容赦なく襲った。素肌に消し難い傷が残った。盛り上がったケロイドと、周囲からの無遠慮な視線は彼女たちからほほえみを奪い、心をも凍りつかせてしまった。

 被爆から10年後の1955年、広島から25人の独身女性がケロイド治療のため米国に渡る。「原爆乙女」と言えば、主に彼女たちを指すようになった。

 米で「ヒロシマ・ガールズ」と呼ばれた彼女たちは、身をもって原爆の悲惨を米国民に問い掛けた。国内では原爆被害者援護の声を呼び起こし、1956年の原爆医療法制定の引き金にもなった。

 取材を重ねるうち、その彼女たちが「先生」「本当の恩人」と呼ぶ女性がいるのを知った。

 横山初子さん(85)=広島市西区在住。ケロイド治療で渡米以来、ほぼ40年間にわたって「ガールズ」を見守り続けてきた。「ガールズは、あのプロジェクトをきっかけに生きる自信を取り戻したのよ」。横山さんの若々しい口調は明治生まれを感じさせない。25人との出会いは、振り返れば運命的だった。

 渡米を5日後に控え、米側関係者の通訳として横山さんは広島流川教会に同行した。教会の一室に入ると、24人が一斉に顔を向けた。

ひとみは輝きを失い、1人遅れて来た娘は顔半分を隠すほどのマスクをしていた。どの顔にも原爆を落とした国で治療を受けることへの不安と一縷(る)の希望が複雑に入りまじっていた。

 「この子たちをほうってはおけない」。付き添いとして同行のため、勤めていた原爆傷害調査委員会(ABCC)に休暇願を申し出たが、所長は認めない。その場で辞表を書いた。夫と子供2人を日本に残したままの生活が1年半になるとは、その時には思いもしなかった。

 随行者を含め35人を運んだのは米軍機だった。プロペラ機は1955年5月岩国基地を飛び立ち、ホノルル、サンフランシスコを経て5日がかりで目的地ニューヨークに着いた。

 ヘレンというミドルネームを持つ横山さんにとって、米国は21年ぶりの「帰郷」だった。両親は広島からの移民。彼女はカリフォルニア州立大を終え戦前、日本に戻っていた。父は再会した愛娘に100ドルを手渡す。それがニューヨーク到着翌朝の全員の食事代に替わった。ガールズはホテルのエレベーターに歓声を上げた。敗戦から10年。日本はまだ貧しかった。

 入院・手術は、渡米治療提唱者ノーマン・カズンズ氏が同じユダヤ系に働き掛け、マウント・サイナイ病院が無償で引き受けた。セントラル・パークに面したニューヨークでも一、二の規模を誇る大病院。そこに専用二室が用意された。

 ガールズは2人1組で郊外の民家にホームステイし、通院した。毎週に及んだ手術はケロイドを切り取り、その跡にももや腹部の皮膚を移植した。横山さんは25人全員の手術に立ち会う。異国で不安と希望に揺れるガールズたちの手を、帰国を待つ母親たちの気持ちまで込めて握り締めた。

 「ドクターたちは本当の人格者でした。『こうしたチャンスを与えられたことに感謝する』と言い、ガールズも麻酔から覚めると、心から『サンキュー』と答えていました」

 彼女たちは延べ百数十回の手術に耐えた。ちょうど執刀開始1年目に、中林智子さん=当時(26)=が手術中に亡くなった。しかし翌日も、ガールズたちはためらうことなく手術台に横たわった。

 「中林さんの次は私でした。多くの人の真実の愛に接し、逃げず、強く生きなくてはと自分に言い聞かせていました」。現在、カナダに住む橘(旧姓神辺)美沙子さん(64)は、当時の気持ちを電話の向こうでそう話した。

 ケロイドより深かった心の傷。それをほぐしたのが、病院関係者やホームステイした家族との触れ合いだった。

 「ホームステイ先の家族はクエーカー教徒でした。欲なんてない。実の娘のようにお世話をしてくれた。ガールズは本当に素晴らしい人たちに出会い、それをきっかけに変わっていった」と横山さんは言う。人の善意、愛が、凍りついた笑みを解かした。

 鉄鋼会社副社長、証券マン、教師…。受け入れ家庭は違っても、いかなる戦争にも反対する。平和を願い、求める人たちをガールズは真心を込め「マミー」「ダディ」と呼んだ。洋裁、美容などを学び、帰国後の自立につながった人も少なくない。

 25人のうちの4人は亡くなったが、いま18人が広島県内で、3人が北米で暮らす。仕事一筋、孫を持つ人…。その後の半生も決して平易ではなかったが、接触した人たちはだれもが力強く生きていた。

 しかし、人間として振幅の大きい人生にもかかわらず、彼女たちの多くは体験を語ろうとせず、沈黙を押し通す。渡米治療に向かった5月にちなみ、つくった「五月会」という集まりも解散していた。

 横山さんは、そんな彼女たちの気持ちを思いやって、長い間マスコミを避けた。が、今回、「みんな自信を持って堂々と生きている。自分たちの苦しみ、喜びを若い人たちに伝えてほしい。そうなる日が来ると信じている」。その気持ちからあえて取材に応じてくれた。


シゲコ・ササモリさん 心をくれたカズンズ氏

 「ヒロシマ・ガールズ」の渡米治療だけでなく原爆孤児の精神養子運動も提唱したノーマン・カズンズ氏。その人柄は「人種や宗教がどう違おうと、態度の変わらない本当の博愛主義者でした」。25人の1人、シゲコ・ササモリさん(62)=旧姓新本=はそう語る。

 ササモリさんは、カズンズ氏から生前、実の娘四人と同じように「マイ・ドーター(娘)」と呼ばれ、精神養女になった。学費や生活費の支援を受けて米国の看護学校で学び、市民権を取得。現在ロサンゼルスで医療関係の仕事に就く。この冬、広島市内の姉の元へ里帰りした。

 「人のいいところを見て笑顔をしなさい。笑う人は周りの気持ちもなごませる。そう言って、自分の病気も治したの」

 ケネディ、フルシチョフ時代に米ソの核実験禁止交渉にも奔走したカズンズ氏は直後の1964年、難病の1つ膠(こう)原病に襲われた。

それを毎日笑う療法で克服。後にはカリフォルニア州立大で脳医学を研究する教授となった。

 カズンズ氏から「自分に素直になることを学んだ」というササモリさんは1982年、米上院公聴会で被爆体験を語るなど平和のための活動も続ける。32歳になる1人息子の名はノーマン。「マイ・ファザー(カズンズ氏)」からとった。

「ヒロシマ・ガールズ」その思い

1、氏名
2、渡米時の年齢
3、渡米治療、滞米生活で最も残る思い出は
4、被爆50年を迎えての感想は

【注】氏名はいずれも旧姓。イニシアルは本人の希望。取材の了解を得られなかった人は空欄

1、神辺美砂子
2、24
3、死んだ方がまし。そう思っていたのが、真実の愛に触れ生きる気持ちがわいた 
4、左手の小指と人さし指は今も動かない。原爆の是非より、戦争そのものが悪い

1、倉本美津子
2、18 
3、ヒッチグ、大内、原田先生らドクター、ミセス横山…ご恩は一生忘れられない
4、協会でいつも二度とあのようなことがないよう、原爆のない世界を祈っています

1、田坂 博子
2、23
3、クエーカー教徒をはじめとした方々の真心、国境を超えた人類愛です
4、戦争は人の力で防ぐことができる。核兵器廃絶、世界平和を願っております

1、新本 恵子
2、22
3、米国人の心の広さ、温かさを痛感した。手術で口が開くようになった
4、カズンズさんの足跡を見詰めつつ、人々と心を開いて原爆の恐ろしさを伝えたい

1、原田 佳枝
2、20
3、見守り続けてくれたマミーの愛情。ノースリーブを着て街を歩けた時のうれしさ
4、傷ついた体が元に戻るわけじゃない。この思いは私らだけでもうたくさん

1、H・S
2、18
3、父に背負われ病院に行っていたのが歩けるようになった。すべての人が命の恩人
4、そっとしておいてほしい。原爆のことは子や孫にもほとんど話していない

1、M・Y
2、23
3、ノーコメント
4、被爆50年の今年こそ、8月6日は静かな祈りの日であってほしい。それだけ

1、M・Z
2、30
3、暗黒の青春が、人種を超えた愛で勇気づけられた。腕の自由が利くようになった
4、これからも感謝の気持ちを忘れず、91歳の母と支え合って生きてゆきます

1、M・W
2、23
3、治療より、マミーらから生きる力を与えてもらった。何よりも人の善意です
4、亡くなった級友の分まで、自分を生かせる道で一生懸命に頑張りたい

1、T・H
2、22
3、教職を1年間休まれ献身して下さったミセス・バレンタインの心温まる人柄です
4、核兵器は二度と使ってはならない。この苦しみは当事者にしか分からないと思う

1、T・M
2、28
3、ケロイドは恥ずかしくないという心が、受け入れてくれた家庭を通して生まれた
4、私たちをずっと案じて下さったミセス・デイが1昨年亡くなったのが残念

1、T・S
2、26
3、ホスト・ファミリーの真心に、悲しみが消えた。また女性の自立を学んだ。
4、「原爆乙女」は差別用語の一種。忘れようと努めてきたのを察してほしい

1、T・T
2、23
3、両目がまばたきできるようになった時の感激。勇気と希望を持つことができた
4、戦争はあってはならない。孫がいる年代をいつまでも「乙女」と呼ぶのはどうか

1、
2、18
3、取材に応じないことにしている。話したくない
4、

1、
2、23
3、家族がいるので…。いつかまた話すかもしれない
4、

1、
2、22
3、失礼させていただきます
4、

1、
2、22
3、米国に行く準備で忙しい。ほかの人に当たってほしい
4、

1、
2、16
3、遠慮させていただきます
4、

1、
2、23
3、原爆と聞くだけで気分が悪くなる。勘弁してほしい
4、

1、
2、23
3、お断りしたい
4、

1、
2、24
3、※手紙、電話とも連絡が取れず
4、

1、中林 智子
2、25
3、1956年5月、米での手術中に26歳で死去
4、

1、平田 穎子
2、31
3、1958年4月、34歳で死去
4、

1、川崎 景子
2、22
3、1960年12月、28歳で死去
4、

1、大島 鈴枝
2、23
3、1983年12月、52歳で死去
4、

<参考文献>「人間の選択」(ノーマン・カズンズ)▽「ヒロシマの外科医の回想」「平和の瞬間」(以上、原田東岷)▽「恵子ゴー・オン」(笹森恵子)▽「文芸ひろしま」(広島市文化新興事業団)▽「精神養子The Moral Adoptionについて」(山本正憲)

(1995年2月26日朝刊掲載)

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