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検証 ヒロシマの半世紀

検証 ヒロシマ 1945~95 <13> 原爆供養塔

■報道部・福島義文

 爆心地に近い平和記念公園の原爆慰霊碑には、現在、約18万7000人の死没者名簿が納められ、無縁の遺骨を弔う原爆供養塔には約七万柱が眠る。いずれも惨禍に命を奪われた原爆犠牲者たち。このデルタの一角が鎮魂の「聖地」と呼ばれるゆえんでもある。

 原爆慰霊碑の碑文は、二度の論争を越えて祈りと非核への決意を訴えかける。戦後半世紀たってなお、原爆の投下責任をめぐる日米の議論は行き違う。だが核時代の「ヒバクシャ」が絶えない中で、「人類の誓い」である碑文の意味は重い。安住の地のない供養塔の遺骨にとっても、被爆50年は決して区切りの年ではない。

 犠牲者に「安らかに…」との言葉をささげ、生存者がヒロシマの惨状を再び起こさないことを心に銘ずる。「聖地」の本来の意義がそこにあろう。


無縁仏の叫び伝えたい 原爆供養塔の「守人」佐伯敏子さん

 平和記念公園に春の観光客が増え始めた。公園の北西端にある原爆供養塔にもにぎわいが届く。背を向けるように、小柄な老女は無心にくま手で落ち葉を集める。「いまだに肉親の元に帰れない原爆犠牲者の遺骨に『やすらぎ』はないんです」。細い声で静かにつぶやく。

 直径10メートル、高さ3.5メートルの盛り土。その地下室には約7万柱の無縁仏が眠る。ある年、供養塔の玉砂利の上で中年男女が花見の宴を開いた。老女は足元に遺骨があると教えた。「えっ、骨。気持ち悪い。早う出よう」と慌てて逃げた。悲しいけど怒れない。「知らないんだもの。だから事実を伝えなきゃね」

 家族への言葉も残さず息絶えた被爆者。引き取り手のないまま半世紀が過ぎる。「死者に言葉があるなら、何と言うだろう。それを聞きたい…」。そう考えながら草を抜き、落ち葉を掃いてきた。佐伯敏子さん(75)=広島市東区福田1丁目。40年近く供養塔を掃除する「守人」である。

 抜き難い悔恨とざんげが胸を締めつける。肉親の死のむごさ、廃虚の中の理不尽な自らの行動…。

 あの瞬間、熱い風圧が体を包んだ。かなたの広島市街地が燃える。安佐南区沼田町伴。5歳の長男を姉の家に疎開させ、前夜から会いに来ていて難を逃れた。しかし母や長兄家族、嫁ぎ先の義父母らは炎の中にいた。

 壊滅した街へ、その日のうちに入った。避難先でやっと会った長兄は頭の骨が見えていた。虫の息に近い6歳のめいと3歳のおい。親のぬくもりを幼子に伝えようと両わきに寝せる。「子供が苦しむ時に助けてやるのが親なのに、さすってもやれん」と、動けぬ兄はうめいた。

 病弱の妹は「骨と身が外れる。痛い」と泣いて息絶えた。母は9月初め、義兄が焼け跡から頭がい骨をふろしきに包んで帰る。厚手レンズの眼鏡で母と知れた。優しい母の変わり果てた姿。怖くて一度も胸に抱けなかった。身内の死者13人。被爆から2カ月余りの出来事だった。

 「廃虚で肉親を捜しながら、人に言えんこともしたんよ」と消え入るように漏らす。妹と思って起こした女の子が「助けて」と足をつかむ。炎が迫る。「離して!」。2人が泣いた。くすぶる余じんの熱さを逃れるため、死体の上を歩いたこともある。戦後、毎晩、女の子が夢に出てうなされた。「ああしなきゃ私が死んでた。こらえて」。いつも汗びっしょりで目が覚めた。

 「『あの日』が忘れられん。死者がすがりついて来る。それなら、死者とともに生きよう」。そう決めた。

 初めて供養塔の地下室に足を踏み入れた日の記憶は鮮明だ。戦後27年目の秋。だれに頼まれた訳でもない掃除を始めて十数年がたっていた。

 狭い密閉空間に、大小の遺骨箱が積まれていた。無縁仏と聞いていたが、氏名や住所の分かる遺骨もあった。一家全滅で引き取り手がないのか。帰る所のない遺骨の多さに、驚き、震えた。備忘録がわりの「安置所日誌」の最初のページにこう書いた。「言葉なき人間との対話を続けることに決めました」

 地下室に入ることのできた7カ月の間に、遺骨名簿を作り上げた。その住所、氏名と地図を頼りに、遺族を尋ね歩き始める。突然の訪問に不審がられ、「何を今ごろ」とどなられもした。その都度、「私も遺骨を捜すのに何年も泣き悲しんだ者です」と説明した。

 義父母の遺骨が返ったのは、戦後24年目とその翌年であった。

 義母の名前は突然、ラジオから流れてきた。公開された供養塔納骨名簿の朗読。耳を疑った。それまで白島の寺で火葬されたと聞いていたが遺骨はなく、茶わんに拾った焼け跡の土が唯一の形見だった。受け取った遺骨箱の封筒書きには、義母の名前と年齢が明記されていた。市が遺骨名簿の公開を始めて1年後、1969年の夏である。

 翌年の公開名簿は丹念に名前を追った。義父と一字違いの人を見つけた。「久太郎」が「文太郎」になっていた。間違いやすい「久」と「文」。だが夫は「もし別人だったら…」と引き取りを拒んだ。「でも捜し求めた遺骨。連れて帰りたい」と言い張った。後で名簿の名前が間違いと分かる。義父は寺の境内に座り込み、目を見開いたまま死んでいたという。

 被爆から28年たった夏。古池あさ代さん(94)=広島県安芸郡府中町=は供養塔の前で夫の遺骨を抱いた。佐伯さんの調査がきっかけである。白い骨箱を見つめ、古池さんがつぶやいた。「今、やっと未亡人になりました…」

 夫が被爆死した時、44歳。5人の子供がいた。2人はまだ小中学生。悲しむ暇もない。それでも心の隅で帰るあてない伴りょの生還を待ち続けていた。佐伯さんにあてた礼状には「遺骨を抱き初めしとき、誰にも明かし得る事の出来ない心の衝動に乱れた…」としたためられていた。

 戦後間もなく建立された旧「戦災死没諸霊供養塔」の墓標にも、遺族は詰めかけた。幼子を背負った男親が「お前のお母さんは墓標じゃ。会いとうなったら、ここへ来い」とさとす姿も見た。佐伯さんは、現在も供養塔に遺族が来ると「遺骨は返ってますか」と尋ね、市の納骨名簿を見せる。生き残った者と帰らざる者の魂が交錯する場所。それが供養塔なのである。

 50年がたつ。しかし今も遺骨を捜し求める遺族がいる。供養塔の掃除をしながら聞き続けてきたそのつらさや切なさを、自分一人の胸にしまわないで、伝える責任がある。佐伯さんは15年前から修学旅行の中高生らに被爆体験や供養塔の意味を語る。「『あの日』の叫びを受け止め、考える場所がここなんです」

 原爆資料館・原爆慰霊碑・原爆ドームと一直線に並ぶ平和記念公園の中心線から、供養塔は外れている。しかし「この土盛りこそ隠れたヒロシマ」と言い続けている。

 戦後、原爆症に苦しみながら、中国から復員した夫と、3人の子供を育てた。末っ子のお産は「母体が危ない」と医者から止められもした。その後の卵巣摘出、子宮がんの手術…。「無理するな」としかりつけながら栄養剤を買ってくれた夫も7年前に他界した。子供たちは「よう生きてきたなあ」としみじみ言う。

 「自分の命がいつまであるかもしれん」。だから今年の8月5日には供養塔わきでロウソクを立て、一人で遺骨の「通夜」をする。物言わぬ死者に代わり、50周年前夜の平和記念公園を訪れる人に、遺族の無念さや自らの胸の内を語っておくつもりだ。

 観光客が行き交う「聖地」。その足の下にも骨が埋まっているだろう。昨年は50回忌の節目だった。「でもね、ヒロシマに歳(とし)はないんよ。私の心の中は『あの日』のまま。草木が育ち、街の緑は美しくなっても、人間を殺す道具がなくなる日まで、ヒロシマは歳を取っちゃいけんのよ」

 365日を喪に服す佐伯さんは、一年中、黒色か紺色の服を着る。ヒロシマの遺骨に、どこまでもこだわり続ける。


≪略史≫ 氏名不詳7万柱も 68年から名簿公開

 1946年1月、原爆後の広島市内に散在する遺骨を収集、供養するため「広島市戦災死没者供養会」が設立された。同年5月、爆心近くの慈仙寺鼻に卒塔婆を形取った戦災死没諸霊供養塔を建立。当初は戦災供養塔と呼ばれた。7月には納骨堂と礼拝堂が市民の寄付で建てられた。広島市内では市街地の復興に合わせ、道路、家屋工事、立ち退き現場などから被爆者の遺骨が次々見つかり、身元不明のまま納められた。

 50年5月、政教分離を求めるポツダム政令によって同会から広島市が抜け、民間団体「広島戦災供養会」として再発足。55年7月、元の供養塔の北に現在の供養塔が造られた。盛り土型で「土まんじゅう」とも呼ばれる。新しい供養塔の完成を機に、似島など各所に散在する遺骨があらためて集められ、これまでと合わせ、氏名不詳の遺骨約7万柱と名前は分かりながら引き取り手のない2432柱が納められた。

 広島市は68年7月から「原爆供養塔納骨名簿」を広島平和記念館などで公開。85年夏からは名簿を全国公開して、遺骨の返還に努めている。新しい供養塔ができた55年以来、これまでに1547柱の遺族が判明。うち974柱が引き取られ、573柱が供養塔に永久安置。今なお氏名判明の885柱が引き取り手もなく、多くの無縁仏とともに供養塔の地下室で眠っている。

<参考文献>「市政秘話」(浜井信三)▽「青春回想録・広高その永遠なるもの」(広島高等学校同窓会)▽「広島原爆戦災誌」(広島市)▽「ヒロシマに歳はないんよ」(ヒロシマ・ナガサキを考える会)など

(1995年4月16日朝刊掲載)

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