×

検証 ヒロシマの半世紀

検証 ヒロシマ 1945~95 <19> 原水禁運動の分裂②

■報道部 岡畠鉄也

 日本で最大の大衆運動となった原水禁運動は政党の介入によって変質した。運動の柱となった日本原水協は社会党・総評系と共産党系に分裂。多くの市民や被爆者は運動に距離を置いた。

 原水禁運動が世界の平和運動に大きな影響を与え、核軍縮に一定の役割を果たした点は否定できない。しかし、市民、被爆者をかやの外に置き、主導権争いを繰り広げて運動を停滞させた指導者の責任は重い。

 分裂が決定的になった1963年の第九回原水禁世界大会と、運動に長くかかわった2人の活動家の生きざまを通し、原水禁運動の虚像と実像を見る。

組織の柱 論戦に半生 元日本原水協の吉田さん・元原水禁国民会議の池山さん

 1988年6月のニューヨーク。マンハッタンにある古いホテルに2人の日本人が入った。第3回国連軍縮特別総会を間近に控え、ロビーにあふれる各国の平和代表団に交じり悠然と歩く2人の姿を、日本の活動家たちは一様の感慨を込めて見つめた。

 日本原水協の元副理事長、吉田嘉清さん(69)と原水禁国民会議の元事務局次長、池山重朗さん(63)。原水禁運動が分裂し2つの組織が激しく対立していた70年代、2人はそれぞれの組織を代表する若き論客であり柱でもあった。いわば対極にあった2人。「こんな時代が来るとはね」。吉田さんは当時、知人にしみじみと漏らした。

 半生を原水禁運動団体のほこりっぽい事務局で過ごし、論争の中に身を置き、手塩にかけた組織を追われるようにして去った2人の活動家。その足跡はあまりにも似ている。それはそのまま曲折を経た原水禁運動の歩みだった。

 2人の活動家人生の源流をたどると共通の思い出にぶつかる。58年、日本で初めての平和行進である。高知県出身の仏教徒、西本敦氏が英国の運動をヒントに提唱した広島・東京1000キロ行進。早稲田大を反レッド・パージ闘争で退学処分になり、55年の日本原水協発足と同時に事務局入りした吉田さんは、行進をバックアップすることになった。

 吉田さんは、行進のスタッフに東京教育大を破壊活動防止法反対運動で無期停学処分となり、原水協に入ったばかりの学生を指名する。池山さんである。彼は停学中、文京区でローカル紙の記者をしていた。そこで見たものは、ビキニ被災に対する庶民の怒りと死の灰への恐怖である。町内会、婦人会を中心に広がる原水爆反対の声に興奮した。「これは大変な運動だ」

 手本なんてない。あるのは若さと情熱だけ。「何を準備していいか、さっぱりわからない。それにしても吉田さんは、素人によくやらせたものだと思いますよ」と池山さん。

 6月20日、平和行進は原爆慰霊碑前を出発する。呉市境まで歩いたところで吉田さんは驚いた。当時の松本賢一呉市長をはじめ、婦人会のメンバーが白湯を入れて待っていたのだ。「口コミで広がり、市や町の入り口には市長や町長、婦人会の人らが待っていてくれる。市民運動に横という観念が確立したのはあの行進だった」

 農作業の手を休めあぜ道を駆けて来る人もいる。そんな光景を織り込みながら、行進は広島を出発して62日目に東京に入る。紙吹雪が舞った。日比谷公園のゴールには5000人が行進を迎える。沿道から手を振る人、お茶を入れる人…、民衆が一丸となって歩いた平和行進だった。

 しかし、大衆の声が小さくなった瞬間、政党の介入が始まった。社会党・総評系と共産党のイデオロギー論争に民衆は戸惑い、運動から離れて行く。行進や集会も動員によるセレモニーと化し、吉田さん自身も運動が民衆と遊離して行くのを肌で感じた。

 「運動指導の当事者として責任を感じている。なぜ当時、多様性の連合という発想に立てなかったのかなあ…」。吉田さんは今更のように悔しがる。

 一方、池山さんは60年に原水協を離れた。勤務評定反対など原水禁運動とは関係ないスローガンに疑問を感じたためである。ある日、ソ連の核実験に反対する集会に出かけた。だが、人が集まらず流れ解散。地方原水協内にも波及した社共対立が原因と聞いた。「運動はもうだめだ」と心の中でつぶやいた。

 原水禁運動はその3年後の第9回原水爆禁止世界大会で分裂する。社会党・総評系は、65年に原水禁国民会議を設立。池山さんは平和行進の感動を夢見て、再度原水禁運動に人生をかけた。

 原水禁運動は一向に溝が埋まる気配がない。「分裂組織」「特定政党、特定国に操られた運動」と相手を中傷し「本家争い」を繰り広げるばかりである。

 「あなたたちは核兵器の禁止をやっているのか、いさかいをやっているのか」。吉田さんは核持ち込み証言で有名になるジーン・ラロック氏にこう問われたことがある。強烈な皮肉である。被爆体験を持つ日本の運動が分裂していることに対する海外の目は厳しかった。吉田さんは統一への道を模索する。

 が、池山さんは統一論議に批判的だった。「水と油の組織の統一は無理。安易な妥協は運動の死を意味する」。組織の独自運動を尊重し、共同の課題で共同行動を積み重ねる連合統一論を展開。吉田さんの組織統一論に真っ向から反論、新聞紙上などで論戦の火花を散らした。

 その論戦の最中の77年5月19日。池山さんには寝耳に水のことが起こる。原水禁国民会議の森滝市郎代表委員と日本原水協の草野信男理事長が「年内をめどに統一」に合意した。いわゆる「五・一九合意」である。池山さんは2日前に自論の連合統一論を柱にした「統一テーゼ」を、総評を含む組織内で最終的に確認したばかり。「森滝さんもわかってくれていると思っていたのだが…。総評は肝心なことは何も話してくれなかった」

 統一実行委員会の発足を決めた拡大世話人会にも池山さんは出席を拒否された。72年に事務局次長就任以来、実務を指揮してきたプライドが粉々に砕かれた。間もなく「人生最大の屈辱を体験した」との言葉を残し事務局を去る。

 池山さんが扉の外で唇をかみしめていた拡大世話人会には吉田さんもいた。池山さん辞任のニュースを聞き「早まったな」と思った。「彼とは以心伝心の間柄。統一しても一緒にやっていけると思ったのだが…」

 ところが7年後の84年、今度は吉田さんが組織から追われる立場になった。「総評や原水禁などの弁護を受け、日本原水協に対する利敵行為を繰り返している」との理由である。「お話にならない理由。共産党は原水協を下請け機関にするためには私が邪魔だったのだろう」。日本原水協の創設にかかわり、約30年間過ごした組織から問責決議を突きつけられたのだった。

 日本原水協を罷免された吉田さんは、国際平和ビューローの連絡事務所を開設する。そんなある日、池山さんがひょっこり訪ねて来た。分裂以来の対面である。静かに握手を交わす2人。胸中に去来したものは、あの平和行進のまぶしい日の光りなのだろうか。2人は冒頭で触れた第3回国連軍縮特別総会にも一緒に出席した。

 池山さんは核問題評論家として今も核にこだわり続ける。「原水禁運動の評価は日本だけを見ていてはできない。日本は指導者が自覚できず党利党略の道具にされてしまった。しかし、世界的にはキューバ・ミサイル危機を乗り越え、核軍縮を米ソに決断させたのは長い原水禁運動の成果だと思う」

 吉田さんは「運動の過程で常にショックを受けたのは被爆者の存在だった。でも、彼らが運動の真ん中に座ったことはなかった」と反省する。吉田さんは90年にエストニアで開かれた反核集会に出かけた。そこで新しい平和運動の形を見つける。チェルノブイリ原発事故の被災者との出会いだった。

 「世界のヒロシマへの思いは想像以上のものがある。ヒロシマはそれにこたえなければならない」。吉田さんは今、チェルノブイリ被災者への医療支援を中心に活動を続ける。今度こそ運動の中心に座っているのはヒバクシャである。

原点の思い 5・19合意 元日本原水協理事長 草野信男さん

 「もともと一つなんだから分かれている方がおかしい。ただそれだけ」。元日本原水協理事長の草野信男さん(85)は、東京都品川区の自宅で淡々と語る。1977年5月19日、森滝市郎・原水禁国民会議代表委員と交わした14年ぶりの統一の握手は、原爆の罪を脳裏に焼き付けた2人の老学者の執念だった。

 「共産党は統一に反対だった。でも世論は圧倒的に統一でしょ」。草野さんは「統一劇」の前に党の原水協担当者に、原水協は党の下部組織かそれとも大衆団体かと迫ったという。「答えは大衆団体。言質をとった。大衆団体だから大衆の意思を反映するのは当然」

 草野さんは東大伝染病研究所の病理学者として被爆直後の広島の調査に加わった。宮島で最初に遺体を解剖した。造血機能が破壊されている。放射線の影響は明らかだった。「許せない」。腐った臓器を見つめ心の中でつぶやいた。

 会談は日本山妙法寺のあっせんで動き出す。「藤井日達山主はえらかった。統一できそうな独特な雰囲気を作ってしまった」。5月18日、草野さんは森滝さんと都内のホテルで14年ぶりに会った。

 森滝さんは両組織が進めているものはそのまま進め、共通の大会を持つ「相補完」の思想を語る。一方、草野さんは「1つの大会、1つの受け皿」を主張。夕食後も会談は続く。そして「核絶対否定」を説く森滝さんに草野さんはうなずく。

 14年間の溝を埋めた瞬間だった。「天下の大勢だった。個人の力でどうなるものでもない」と草野さんは言うが、彼らの胸中には被爆の原景に対するしょく罪の思いがあった。19日、核絶対否定を核兵器絶対否定と改め合意する。

 だが、組織統一は実現せず、原水禁大会の統一開催も86年に崩れる。草野さん自身も84年、問責決議を突きつけられ辞任する。

 草野さんは今、53年に出版した原爆傷害に関する本の復刻出版の準備をしている。「放射線の恐ろしさがまだ理解されていない。今度は空襲された都市を黒く塗りつぶした真っ黒に近い日本地図をつける。原爆投下時に日本がすでに瀕(ひん)死の状態で、原爆が日本の降伏を早めたという理論がいかに奇弁であるかわかるだろう」。原点を見た老学者の信念である。

<参考文献>「ヒロシマ・ノート」(大江健三郎)▽「ヒロシマ四十年 森滝日記の証言」(中国新聞社編)▽「原水爆禁止運動」(今堀誠二)▽「安部一成論文選集5」▽「広島新史 歴史編」(広島市)▽「平和運動20年運動史」(日本平和委員会編)

(1995年5月28日朝刊掲載)

年別アーカイブ