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連載・特集

海自呉地方隊60年 第2部 時代の目撃者 <3> 潜水艦配備(1960年) 冷戦期 重要な乗員養成地

 海上自衛隊5基地のうち、潜水艦を配備しているのは呉と横須賀(神奈川県)だけだ。旧海軍が潜水学校を置いていた時代から、呉は潜水艦の中心地である。

 「旧ソ連と緊張関係にあった冷戦時代。伊予灘や豊後水道で魚雷発射訓練や潜行訓練を繰り返した」。1965年から20年ほど潜水艦に乗り、艦長も務めた橋本金平さん(76)=廿日市市=は振り返る。

 60年2月、呉地方隊の下に呉潜水艦基地隊が新たに編成された。当初は自衛艦隊のある横須賀に置くとみられていたが用地取得が難航した。一方、呉では工廠(こうしょう)などの旧海軍施設が英連邦占領軍から返還され、存分に活用できる場所があったのだ。

 海自隊の潜水艦部隊の出発点はその5年前にさかのぼる。55年8月、日米艦艇貸与協定に基づき、米軍の潜水艦ミンゴの貸与を受けた。隊員約80人が渡米し、10カ月の訓練を積み帰国した。

 艦はくろしおと名を変え、後に呉に配備。練習艦となった。同時に国産潜水艦の建造も始まる。第1号のおやしお、潜水艦救難艦ちはやなどが相次ぎ呉で就役した。「くろしおは床がピカピカで品質が良かった。初期の国産艦は故障が多かったけどね」と橋本さんは笑う。

 呉は隊員養成でも重要な位置を占める。60年の呉潜水艦基地隊編成とともに、横須賀の教育機関が呉基地に移転。69年、潜水艦教育訓練隊となり、今に至る。(小島正和)

潜っては浮き 訓練に没頭

木村光人さん(87)=呉市焼山桜ケ丘

 1954年、潜水艦ミンゴを米国に引き取りに行く訓練派遣隊の一員に選ばれた。旧海軍時代は潜水艦の機関士。経験を買われたのだろう。再び役に立てるとうれしかった。

 翌年1月に横浜を出港し、10日間の航海で米国に着いた。東海岸ニューロンドンの海軍潜水学校で通訳の助けを借りて半年ほど教育を受けた。8月、サンディエゴで引き渡し式を迎えた。ようやく海自のくろしおになったんだと感慨深かった。

 米国の艦といっても潜水艦に大きな差はない。ただエンジンの性能の良さに感心した。整備していても服が油まみれになることがほとんどなかった。扱いやすかった。

 帰国後、横須賀に配属された後、60年にくろしおとともに呉に転属になった。昔の潜水艦乗りにとって呉は思い出の地。終戦も呉で迎えた。係船堀地区の桟橋に帰ってきて、懐かしさがこみ上げた。

 その後、おおしお、なつしおなど国産艦に乗った。訓練は急速潜航に明け暮れた。一分一秒でも早く、いかに安全に潜るか―。一日に何回も、潜っては浮き、潜っては浮いた。

 呉潜水艦基地隊の発足当初は対潜訓練が重視されていたから、水上艦の探知訓練の目標艦にもなった。水中の地形データも集めた。

 潜水艦部隊が始動したのは戦後10年。私のような海軍経験者がまだ7割ほどいた。敵に捕捉されないため潜水艦の中で音を出すのは厳禁。足音がしないよう戦中やったように靴にぼろ布を巻いていたら、古いって若い隊員に笑われたよ。

(2014年4月3日朝刊掲載)

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