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連載・特集

『生きて』 報道写真家 桑原史成さん <2> 笹ケ谷鉱山

ニュース映画 世界の窓

 1936年10月、島根県木部村(現津和野町)で父健次郎と母勝子の長男として生まれた。本名は史成(ふみあき)という

 父は戦時中に陸軍に召集されて、母と妹を残してカンボジアやミャンマー、タイなど南方を転戦していました。幼かったので、戦争の記憶はないも同然です。終戦の直前、隣村の山口県嘉年(かね)村(現山口市)に戦闘機「隼(はやぶさ)」が不時着したことは覚えています。不時着した場所が、母の実家の近くだったからね。

 父は終戦後に復員。木部村、畑迫(はたがさこ)村(現津和野町)にまたがる笹ケ谷鉱山の経理部に就職する

 陸軍で主計の仕事をしていた経歴が役に立ったようです。江戸時代に天領だった笹ケ谷鉱山は、銅の採掘で有名でした。銅の精錬で生まれる猛毒の亜ヒ酸は、殺鼠(さっそ)剤の原料になったそうです。

 鉱山は、自宅から細い山道をたどって数キロ離れた山奥にありました。終戦直後は娯楽がない。大勢が働く鉱山では、毎晩のように映画会や大衆演劇の芝居がありました。

 小学校から中学校に上がるころ、毎晩のようにカンテラを片手に、幼なじみと鉱山に通ったものです。李香蘭の「支那の夜」や上原謙の「愛染かつら」…。戦時中の映画が多かったな。町の子どもより映画を多く見たのは間違いないです。

 とりわけ衝撃を受けたのは、映画の幕あいに上映するニュース映画だった

 ナレーションと音楽が扇情的でした。山奥にいながら、世界の動きがどんどん飛び込んでくる。新鮮だったね。山猿のような田舎の中学生には過分な刺激でした。

 笹ケ谷鉱山には負の歴史がある。ヒ素による住民の健康被害だ

 鉱山から流れ出る川の水が赤く濁っていた。その水を引いた田んぼは「カナヤケ田」と呼ばれていて、稲の実りが悪かった。鉱害、鉱毒という言葉も、子どものころに覚えました。水俣病にすぐ反応したのは、古里の土地柄の影響でしょう。

 笹ケ谷鉱山は71年に閉山した。72年、島根県が住民の健康調査を開始。74年には、近隣住民の慢性ヒ素中毒症を国が公害病に指定した

(2014年5月14日朝刊掲載)

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