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連載・特集

『生きて』 報道写真家 桑原史成さん <7> 水俣へ

人生変えた週刊誌ルポ

 1960年3月、東京農業大と東京フォトスクール(現東京綜合写真専門学校)を卒業しましたが、「手つかずのテーマ」には出合えません。心にすきま風が吹き込み始めました。5月に入って、津和野の母から「大学を出たんだから、一度くらい帰ってこい」と手紙が届きます。夜行列車で帰郷するんですが、東京駅に見送りに来た写真学校の同級生が差し入れてくれた「週刊朝日」の特集記事をきっかけに人生の歯車が大きく動きました。

 特集のタイトルは「水俣病を見よ」。漁村に暮らす患者と家族の戸惑いや、「工場排水が発病の原因」とする熊本大医学部の研究者の指摘、新日本窒素肥料(現チッソ)の対応を記録したルポだった

 車中で一気に読みました。「貧しいがゆえに魚をとり、貧しいがゆえに魚を食べる」という書き出しは、今も鮮明に覚えています。自分が変身するような熱いものを感じました。死者も出ている公害を「ただならぬことだ」と直感しました。

 実家には1泊しただけで、東京に戻りました。まず、向かったのは朝日新聞社。取材班の責任者に何度も会って情報収集しました。撮影機材は父から借金してそろえました。

 る60年7月。初めて熊本県水俣市を訪れ

 夜行列車で熊本市に着いて、取材班の記者に紹介してもらった熊本大医学部の徳臣晴比古(はるひこ)助教授に会います。すると「明日、水俣の漁村へ問診に行く。付いて来ないか」と。翌朝、徳臣さんと水俣市立病院の大橋登院長を訪ねました。

 応接間で大橋院長にあいさつすると、「写真で一体、何ができると」と肥後弁の大声が返ってきました。「公害が、独占資本が…」と理屈を言いかけましたが、これでは納得してもらえないと感じました。

 「写真家を志望しています。一つのテーマで写真展を開き、写真家の登竜門をくぐりたい。そのために、患者の写真を撮らせてもらいたい」。開き直ったように言い終えると、返事は「よかですたい」。部屋の隅にいた徳臣さんは笑みを見せました。今も続く取材の幕が開いた瞬間です。

(2014年5月21日朝刊掲載)

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