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連載・特集

『生きて』 報道写真家 桑原史成さん <8> 病苦の漁村

家族を撮影 全体像描く

 熊本県水俣市での初取材は、1960年7月から2カ月間に及んだ  初日は熊本大医学部の回診班に同行し、発病者が相次いでいる漁村を訪ねました。係留された漁船を見て、魚が売れないから操業を止めているんだと、すぐに理解しました。何とも皮肉な光景でしたね。

 3日目から市立病院で撮影を始めました。看護師や患者の家族からは「学生さん」と呼ばれていましたね。しばらくして、患者の女児に付き添う母親から「漁村の写真ば、撮りなさったと」と声を掛けられました。「撮れていません」と言うと、「案内ば、しましょう」と。彼女の夫は船大工。自宅に付いていくと、仏壇がありました。56年の水俣病公式確認の「第1号患者」となった娘が、8歳で亡くなったことを聞いたのです。娘2人が発病した母親の姿に接し、子どもまでもが逃げられない悲劇と痛感しました。その日はシャッターを切れませんでした。

 破れたふすまに、波打つ畳…。患者の生活を記録する写真は、貧しさを刻み込んでいる

 山奥育ちだから、不思議と貧しさは感じませんでした。漁村は目の前に魚がいます。毒であろうと、魚がいる。同じ魚を食べた家族が一斉に発病する。家族を撮る、人間を撮ることが、水俣病という「事件」の全体像を描くことだと確信しました。

 62年7月に週刊誌「女性自身」で作品を発表。同年9月には初個展「水俣病」を東京で開く

 写真学校の同級生で、ソニーに勤めていた英(はなぶさ)伸三が撮影に同行し、テープレコーダーを使って患者の家族の言葉を録音しました。漁師と一緒に舟もこいだな。現地で収録したインタビューや潮騒の音は、個展会場で流しました。

 当時は、工場排水原因説を熊本大医学部が主張する一方、新日本窒素肥料(現チッソ)は責任を認めていなかった。個展を訪れた学者が名刺を差し出し、排水説を否定する持論をまくしたてました。念願の初個展でしたが、彼の言葉に、うなずくことしかできませんでした。

 国が水俣病の原因を「チッソ水俣工場が排出するメチル水銀」と認定したのは68年9月。患者の公式確認から12年が過ぎていた

(2014年5月22日朝刊掲載)

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