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社説・コラム

『言』 集団的自衛権と呉 「脱軍港」先人は模索した

◆広島大大学院教授・河西英通

 呉が軍港都市の歴史を閉じて来年70年になる。明治以来、鎮守府と工廠(こうしょう)を核に発展し、戦後は「平和産業港湾都市」を宣言。だが朝鮮戦争を境に海上自衛隊の地方隊が生まれ、現在では自衛隊海外派遣の後方支援拠点として重みを増す。日本の集団的自衛権が問われる今、呉の歴史に学ぶべきは何か。旧軍と地域の関係に詳しい広島大大学院の河西英通教授(60)に聞いた。(聞き手は論説副主幹・佐田尾信作、写真・福井宏史)

 ―編者を務めた「軍港都市史研究Ⅲ 呉編」が出ましたね。
 広島修道大の坂根嘉弘さんが郷里の舞鶴をまとめた論集が始まりです。軍事史研究ブームの昨今でも、陸軍の軍都が中心で海軍は意外にも手つかずでした。しかし、一漁村から人工的に築かれた軍港の方が地域の行く末に与えた影響ははるかに大きい。呉、佐世保、横須賀の巻も、ということになったわけです。

 ―師団や連隊が駐屯した軍都は広島のように城下町が母体。軍港は全く歴史が違いますね。
 作家獅子文六が「呉から海軍を引いたら何も残らない」と書いたのは有名です。呉市土木部長の長崎敏音は1940年に「特異性都市」という言葉を記しています。内務省畑の都市計画の専門家で、人口規模は十分でも軍需産業と軍隊がセットになった町が果たして都市なのか、という問題意識でしょう。

 ―開港以来を顧みれば、波乱の歴史ではあります。
 大正期には工廠の争議や米騒動に揺れました。米騒動は実弾使用寸前で鎮守府が収拾しましたが、海軍にとって重大な局面でした。職人の結束が強い工廠は当時の労働運動の最先端で、下手すれば火に油を注ぎかねない。国内に四つしかない軍港で最大の呉が機能停止すれば海軍の存亡にも関わるわけで、常にジレンマを抱えていたのです。

 ―一時、海軍頼みではない地域づくりの機運が起きますね。
 「海軍の休日」と呼ばれた第1次大戦後の軍縮の時代です。やすりや万年筆といった業種をもり立て、物産展を開き、商業会議所を設立する。標語も募り「産業も東洋一に致しませう」が選に入ります。ただ、軍港を返上するまでには至らず、31年の満州事変以降、かえって軍事色は強まっていくわけです。

 ―米軍の爆撃で大きな犠牲を払い、戦後は旧軍港市転換法(軍転法)を呉市は自ら立案します。
 軍転法を国会に出す時、「特異的な性格の都市」という文言が請願文にあります。海軍抜きには成り立たない町では行政を預かる者としては不安だったのでしょう。40年代にかなり高い水準の土木事業を進めていますが、うがってみれば、長崎たちは終戦を見越して、今でいう「特区」を構想していたのかもしれません。

 ―軍転法は再軍備を嫌う庶民感情に配慮したようですね。
 だから、軍需ではなく恒久的に地域に残る平和な産業への道筋を付けようとした。当時の文書には「最も悲惨な犠牲都市」とか「廃都の運命」とか出てきます。これ以上「戦犯都市」などと言われるのは耐え難い―という言い回しもあります。

 ―ですが、50年に起きた朝鮮戦争を境に流れは大きく変わります。
 東西冷戦の構造に組み込まれ、日本も呉も再生というか転生していく。ことしは海自創設60年ですが、今では呉の艦艇保有数は群を抜いていますし、大型化しています。旧海軍の遺産を観光資源にしていることもあり、戦後何が変わったのだろうか、考え込まざるを得ません。

 ―そして集団的自衛権の行使容認が閣議決定されました。
 宣戦布告する国になり、攻撃される国にもなる。先人が「脱軍港」を模索してきた呉ですが、日本が戦争に巻き込まれた時、またしても「犠牲都市」になるのでしょうか。むろん広島市も平和記念都市建設法によって復興を遂げました。呉も広島も、もとより広島大学も、今こそ平和に対する歴史的な使命があるはずです。

かわにし・ひでみち
 53年札幌市生まれ。北海道大大学院文学研究科博士後期課程単位取得満期退学。博士(文学)。上越教育大助教授を経て07年から現職。専門は近代日本地域史、近代東北史。著書に「せめぎあう地域と軍隊」「『東北』を読む」など。「軍港都市史研究」(清文堂)は舞鶴編、景観編、呉編が既刊。呉編は医療衛生、水道敷設、漁業補償と軍港の関係にも触れている。

(2014年7月9日朝刊掲載)

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