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社説・コラム

『寄稿』 詩人・原民喜と聖書 竹原陽子 

原爆の悲惨「天」に救い

絶望せず平和構築確信

 広島市出身の詩人・原民喜(1905~51年)について、自死を選びながらも、独自の祈りの世界をもっていた信仰のありように注目して研究している。

 民喜は広島市幟町(中区)の長兄宅で原爆被災した。奇跡的にほとんど無傷で助かり、京橋川の河畔と東照宮下で2晩野宿。持っていた手帳に惨状を克明に記録した。避難した八幡村(佐伯区)でも書き継ぎ、記録をもとに代表作「夏の花」を執筆。手帳には「コハ今後生キノビテコノ有様ヲツタヘヨト天ノ命ナランカ」と、強い使命感を示す言葉が刻まれている。

 民喜は11歳のときに父を亡くし、死者の魂はどこへいくのかという「死」の問題を抱えた。翌年、結核で死の床にあった姉から聖書を教えられ、「神様てものはあつたのだ」(「焰(ほのお)」)と、生まれ変わるほどの衝撃を受けている。しかし、夜明け前に死人が還(かえ)ってくる幻覚がするなど、現世の裏側に同じような死者の世界があるといった実感も持っていた。

 慶応大を卒業してから結婚。妻は、臨死体験で見た花の幻の美しさを民喜に語り、それが民喜の「天」のイメージの核となった。妻は44年、結核と糖尿病のため死去。民喜はその翌年に疎開した広島で原爆被災した。

 民喜はその衝撃を「原子爆弾の一撃からこの地上に新しく墜落して来た人間のような気持がする」(「廃墟から」)とし、小説「夏の花」では「今、ふと己れが生きていること、その意味が、はっと私を弾(はじ)いた。/このことを書きのこさねばならない」と記している。民喜自身、存在の根底から「天」と結びつき、生きる意味を悟って、使命感に貫かれたのだろう。

 原爆以後、民喜は「自分のために生きるな、死んだ人たちの嘆きのためにだけ生きよ」(「鎮魂歌」)と言い聞かせながら、苦しみや死の向こう側に永遠の救いを見つめ、亡妻との思い出や原爆体験に基づく小説を多数発表した。

 聖書も愛読していた。小説集「夏の花」を刊行した際、献辞として、聖書から「雅歌」の一節を引用。その自著の見返しに「われこの事を心におもひ起せり/この故に望みをいだくなり」という「エレミヤ哀歌」の言葉をペン書きし、評論家の中島健蔵に贈った。民喜は現世である地を「天」との関係で捉えており、聖書を基盤に「天」と結びつくことで絶望することなく、原爆の悲惨を思い知った人類は平和を築いてゆくとの確信を得たのだろう。

 民喜の作品において「天」は、花々が咲き乱れ、先立った父母や姉、妻のいる世界として描かれている。民喜はその世界を「遥(はる)かな世界」とも言い表し、そこから吹いてくる風を感じていた。

 民喜は、すべてを書き終えたら妻のもとへ旅立ちたいとの願いを持ち、50年春、最後の帰郷と考えて広島を訪れ、詩「永遠(とわ)のみどり」を執筆。5月に中国新聞記者の金井利博氏宛てに送った。

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 詩「永遠のみどり」
「ヒロシマのデルタに/若葉うづまけ//死と焰の記憶に/よき祈よ こもれ//とはのみどりを/とはのみどりを//ヒロシマのデルタに/青葉したたれ」

                ◇

 民喜は51年3月13日、鉄道自殺。直前に、この詩の清書原稿を中国新聞に送付し、死亡記事とともに掲載された。

 今日も広島の街には風がそよぎ、樹木のみどりを揺らしてゆく。民喜の、地を「天」と結ぶ文学を通して、「遥かな世界」から語られる死者の声に耳を澄ませたい。

たけはら・ようこ
 1976年、福山市生まれ。ノートルダム清心女子大文学部を卒業し、同大大学院文学研究科日本語日本文学専攻博士前期課程に在学中。日本キリスト教文学会会員。寄稿「原民喜の木箱」(「三田文学」2009年11月)など。広島市中区在住。

(2014年7月21日朝刊掲載)

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