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戦後の川内地区「苦楽の記録」 大量の写真ネガ見つかる 広島市安佐南区 

180人被爆死乗り越え/広島菜の栽培風景も

 原爆により、住民約180人が爆心地近くの勤労動員先で亡くなった広島市安佐南区の川内地区(旧川内村)で、1940~60年代の営みを写した大量の写真とネガが残っていた。地元の写真愛好家、中岡雅昭さん=2009年に80歳で死去=の撮影。被爆3年後に米国移民から救援物資が届いた記録や、広島菜の栽培風景を収めた地域の「戦後史」の資料だ。中岡さんの遺族が近く、市公文書館に電子データを寄贈する。(田中美千子)

 中岡さんは川内村に生まれ育ち、旧制広島二中(現観音高)を卒業後、村役場に勤めた。終戦前から写真を撮り続け、60年代半ばまでを収めたアルバムだけで約30冊に上る。

 地域の歴史を象徴するのが、川内6丁目にある浄行寺で撮った2枚。「(昭和)23年」「原爆死者遺族にアメリカ在住同朋より慰問品」と説明書きがある。米国移民から救援物資が到着した時の記念写真で、本堂前に整列した遺族たちに女性や子どもが多いのが分かる。

 川内の住民約180人は45年8月6日、国民義勇隊として爆心地近くで建物疎開の作業に当たり、被爆死した。原爆に夫を奪われた女性は70人以上。古里の苦境を知り、戦前に米国へ渡った人たちが支援の手を差し伸べたとみられる。

 町内の枌岡(そぎおか)勝義さん(69)は、母アヤメさん=98年に86歳で死去=に抱かれ、この写真に納まっている。「心身共にしんどい時期に、救援物資に助けられたろう」。夫を義勇隊で、長男を学徒動員で失い、生後8日目の勝義さんと娘3人を育てなければならなかった当時33歳の母を、そう思いやる。

 46年11月に、平和記念公園(中区)となる前の材木町に遺族が建てた木製の「川内村原爆死者供養塔」の写真は、周辺にがれきが残り、復興途上の様子を伝える。義勇隊が休憩場所にした誓願寺の焼け跡にあったという。米国の食糧視察団が特産の広島菜の収穫を見学する光景(48年)、口田地区(安佐北区)と結ぶ木製の安佐大橋の開通式(52年)などもある。

 中岡さん自身も義勇隊に入っていた父勲造さん=当時(59)=を亡くした。妻玲子さん(81)は「戦後に苦労しただろうが、近所の人にかわいがられ、地区の写真を撮り続けた。歴史を伝えるのに役立てば」と願っている。市公文書館は活用策を検討する。

(2014年8月1日朝刊掲載)

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