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連載・特集

被爆を伝えて <1> 作家・周防柳さん 沈黙守った父 物語で対話

 広島、長崎に原爆が投下されて69年。被爆者の子や孫に当たる世代の小説家や劇作家たちが、家族の被爆体験をモチーフに作品を発表している。記憶が薄らいでいく中、伝えようとする創作者に思いを聞いた。

 「完全に忘れてもらっては困る。しかし、自分は語りたくない」。作家周防柳さんは小説「八月の青い蝶」(集英社)で、被爆体験を黙して語らなかった亡き父の心境を、主人公の心情に重ねて記した。断片しか知らない父の記憶を、創作の力でよみがえらせるように描いていった。

 2010年夏に他界した父。明るくておしゃべりだった。「職場に面白いやつがいる、なんて話もする。なのに、あの日の体験と戦争については言わない」。違和感を抱き続けた。

軍人の子 負い目

 小説の主人公は当時の父と同じ旧制中学の生徒だ。爆心地から1・5キロで被爆。軍人の子として生まれたことを負い目に感じつつ戦後を歩む。

 周防さんは東京で生まれ、5歳から小学4年まで大竹市で育った。周囲に被爆者も多く、「原爆は皮膚感覚としてあった」。だが、母や姉も含め家族は誰も原爆や戦争を話題にしなかった。父が口を閉ざし続けた体験とは何なのか―。かえって興味が湧いた。

 1945年8月6日、広島一中(現国泰寺高)の3年で14歳だった父は建物疎開に動員され、爆心地から1・5キロの鶴見橋で被爆した。「川に浮いたから助かった」「御幸橋の救護所で油を塗ってもらった」。父の言葉で具体的に聞いていたのはこれだけだ。

 20代から、いつか父の被爆体験を小説にしたいと思っていた。09年、父が白血病を発症。「あと1年持つかどうかと言われた。今、聞いておかないと」。背を押されたが、詳しく聞けば苦しめると結局、聞けずじまい。残ったのは、飛び石のような事実だ。隙間は「自らの想像力で埋めていくしかなかった」。

 葬儀後、鶴見橋を訪れ、あの日父がさまよったであろう川辺を歩き、原爆資料館で被爆者の絵を見た。「一人の人間が決して語らず墓場まで持っていった記憶。そこに分け入れるのが小説だと思う」。文学の可能性を信じ、父の思いに寄り添おうと努めた。

 物語では、広島の街で建物疎開作業中に被爆した生徒が65年後、急性骨髄性白血病を患い死期が迫る。病床で、あの朝に断ち切られた初恋の記憶をたどる。

 作中、実父の内面が噴き出したような場面がある。体験を小学生に語ってほしいと言う、戦後世代の娘の担任教諭と口論になる。主人公は、被爆者へのさまざまな偏見を挙げ、原爆や戦争を知らない世代の言葉に「(平和を)頭で考えとる」と憤り、涙する。

 「父は、級友たちが原爆で亡くなったのは、軍人だった自分の父たちに原因があるのではという気持ちがあった。だから、自分が瀕死(ひんし)のけがをしても、単純に怒れなかったのだと思う」

想像力の大切さ

 物語を紡ぎながら感じたのは、想像力を働かせる大切さだ。それは、現代の社会にも当てはまるという。原発や集団的自衛権―。賛成、反対と、黒白をつけようとするムードに危機感を覚える。「簡単に割り切れない、第三の意見もあるかもしれない。そんな想像力を持って眺めることも必要では」と力を込める。

 学校で教わる歴史にも、語れない人たちの視点が抜け落ちているように映る。「原爆は語り尽くされているようだが、まだ隙間のあいた角度もある」。それを伝えることはできると、今は実感する。(石井雄一)

すおう・やなぎ
 1964年東京都生まれ。岩国高を卒業し、早稲田大卒。2013年、「八月の青い蝶」(「翅(はね)と虫ピン」を改題)で第26回小説すばる新人賞。東京都在住。

(2014年8月5日朝刊掲載)

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