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連載・特集

岩国の空襲69年 <中> 海軍航空隊 基地の町 民家にも傷痕 孫に体験語り継ぐ

 「爆弾の破片が当たってできた傷がたくさん残っている」。野元知恵子さん(78)=岩国市旭町=はそう言って、江戸時代から残る自宅の蔵の戸を指した。1945年8月9日、岩国市川下地区の旧岩国海軍航空隊や周辺の民家は、米軍機の爆撃に襲われた。

 当時9歳で、川下国民学校(現川下小)の4年生だった。「きょう、ここへ(空襲が)来るかもわからん」。自宅近くで、2人の兵士が会話をしているのが聞こえた。「早く逃げないと」と思い、祖母を連れ、防空壕(ごう)へ逃げ込んだ。

 その瞬間だった。「バリバリバリ」。異様な音とともに爆撃が始まった。伯父も何とか壕に滑り込み、3人で布団をかぶって空襲が終わるのを待った。

 どのくらいの時間がたったか、静かになったので外へ出てみると、辺りの様子は一変していた。近所の家が燃えていた。自宅の雨戸が担架代わりに使われ、兵士が「頑張れ。しっかりせい」と、けが人を運ぶ姿が脳裏に焼き付いている。

 「山口県の空襲」(工藤洋三著)によると、爆撃は午前11時18分に始まった。岩国市史には死者46人と記載。一方、当時、死体収容などに当たった市職員の証言では「240人死者があった」(岩国市発行の「岩国駅周辺被爆記録」から)となっている。

 子どものころは田畑が広がり、民家がわずかしかなかった川下地区。野元さんの先祖が土地の一部を提供した岩国海軍航空隊の基地は戦後、米軍に接収され、62年に米海兵隊岩国基地となった。そして今、在日米軍再編に伴い、極東最大級の基地へと変貌を遂げようとしている。

 2人の子どもと4人の孫に恵まれた野元さん。空襲を体験した人が減る中、「人間同士が殺し合う戦争ほど、みじめなものはない」と、孫たちにできる限り体験を伝えてきた。再びこの町が、標的にならないことを願って。(増田咲子)

(2014年8月13日朝刊掲載)

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