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岩国の空襲69年 <下> 終戦前日 暗闇の防空壕 記憶今も 奇跡の生存 思い複雑

 「この辺りにあった防空壕(ごう)に逃げた。爆弾が落ちるたびに壕の中が崩れ、砂に埋もれた」。12歳だった山本正さん(81)=岩国市門前町=は終戦前日の1945年8月14日、岩国駅前で米軍のB29爆撃機による集中爆撃に遭った。狭く、真っ暗な壕に閉じ込められた恐怖は今も忘れられない。

 45年春、空襲の激しかった大阪から母の古里岩国に移り住んだ。14日は、疎開してきたばかりの身重の叔母の荷物を取りに、四つ下の弟と叔母の3人で岩国駅へ向かった。警報が鳴り響き、駅前の防空壕へ飛び込んだ瞬間、爆弾が落ちた。

 「1発目の爆弾が落ちたとき、『早く兵隊さんになって敵を討つ』と瞬間的に思った。でもすぐに、それどころではなくなった。生きるか死ぬかの思いだった」と振り返る。

 壕の入り口がふさがり、弟とともに、兵士2人、老夫婦の計6人が閉じ込められた。爆撃が終わった後、兵士が軍刀を天井に刺し、空気を通す穴を作ってくれた。どのくらい時間がたったか、消防団らしき人に助け出してもらった。

 外に出ると、山本さんたちがいた場所の周囲に、爆弾による大きな穴が六つできていた。生死が分からない人たちの姿、馬の死骸…。惨状は鮮明に覚えている。叔母とは、防空壕に避難する時にはぐれた。家族で捜索したが、行方は分からないままだ。

 空襲は昼前から始まった。岩国市史によると死者は517人とされる。当時の市厚生課長は「実数は千人近かったはずだ」と本紙に証言している。

 「こうして生きていられるのは奇跡。大勢が亡くなった中、自分だけが生き残ってよかったのか。思い出すと切ない」。山本さんは自身の体験を家族にもほとんど話したことがない。戦争の記憶が薄れゆくことを懸念し、「少しでも役立てれば。これが最初で最後」と証言した。

 あの日から69年。「今の日本は、しっかりしないと戦争に巻き込まれる」と山本さん。14日は、自宅で静かに犠牲者の冥福を祈るつもりだ。(増田咲子)

(2014年8月14日朝刊掲載)

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