×

連載・特集

緑地帯 「ミリキタニ」と出会う 峰崎真弥 <4>

 第2次世界大戦中、ジミー・ツトム・ミリキタニと私の祖母は、同じ米カリフォルニア州のツールレイク日系人強制収容所に入れられていた。ただし、2人に面識はない。

 ツールレイクは、米国にあった10余りの収容所の中でも、より監視度の高い隔離センターとして、米国に「不忠誠」とみなされた人が集められていた。不忠誠と一口に言っても、日系人は多様なアイデンティティーを持っている。ミリキタニは「米市民権を持っているのに不当な扱いだ」と反抗的だった。祖母の一家は、ママー(祖母の母)の日本への愛着が深かった。それぞれ「忠誠調査」に引っ掛かる結果になったようだ。

 祖母に聞いた収容所体験は、重々しいものを予想していた私には意外だった。当時、子どもだった祖母には、親の手伝いをしなくていい、毎日友達と遊べる場所という記憶が強いらしい。イチゴ農園での暮らしでは知ることのなかった、トランプやマージャン、ハンカチ落としなど、たくさんの遊びを知った。

 食事も米軍仕様で、今までに味わったことのないものだった。当時、カメラの持ち込みは禁止されていたというが、写真が多く残っているのは、割とおおらかだったのか。

 「ただ、自由や土地、財産を奪われた大人の人にとっては精神的にとてもつらかったと思うわ」と祖母は言う。ミリキタニは収容所でも絵を鍛錬し、子どもに教えることもあったようだ。

 1945年の終戦時、ミリキタニは25歳、祖母は14歳だった。(アーティスト=江田島市)

(2014年8月23日朝刊掲載)

年別アーカイブ