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連載・特集

「放影研60年」 第3部 被爆地とABCC <1>幻の調査

■記者 森田裕美

「残留」研究 中止悔やむ

 米国が1947年、被爆地に設けた原爆傷害調査委員会(ABCC)に対し、「研究対象にされた」と反発や嫌悪感を抱く被爆者や遺族は今も少なくない。原爆を投下した米国が、放射線影響研究所(放影研、広島市南区)の前身であるABCCを置いた思惑は何だったのか。被爆地で何を調べたのか―。米国取材で入手した資料と、被爆者や家族、関係者の証言などから、実像の一端に迫る。

 広島市西区の医師玉垣秀也さん(84)は柔和に笑い、A4判の紙の束を取り出した。「この年になると、働き盛りの記録を残しておこうと思うようになってねえ」

 働き盛りとは、放影研の前身であるABCCに勤めた49年からの16年間を指す。遺伝部や臨床部で医師として働いた。ABCCに対する被爆者の反発が強かったころ。

 玉垣さんが「返す返すも残念」としたためた部分がある。原爆の残留放射線の影響調査が打ち切られた時のことだ。

 50年代前半。玉垣さんらは、原爆投下後間もなく入市した人や被爆者の救護に当たった人で、残留放射線の影響が疑われる42例を聞き取り調査した。それぞれの行動記録を地図に落とし、診察や血液検査をした。嘔吐(おうと)や脱毛、歯茎の出血など明らかに急性症状と見られる例があった。報告書にまとめた。

 ところが研究は、この「予備調査」だけで終わった。ABCCを管轄する米原子力委員会(AEC)の科学者が反対したためだった。「赤痢や腸チフスなどの伝染病でも同じような症状は出る。米国の科学の『常識』では考えられない」が理由だと聞かされた。

 玉垣さんは反論する。「救護で入市した人に、栄養状態の悪さや伝染病は考えにくい。残留放射能を否定することはできないと今も思う」

 自身も原爆で家族を奪われた。実家は爆心地から1・3キロの広島市天満町(現西区)にあった。医大の疎開先だった山形県鶴岡市で「新型爆弾で広島全滅」と知った。気力を失い、古里に戻ったのは三週間後。母は亡くなっていた。近距離被爆の妹は瀕死(ひんし)の状態だった。実家近くで診療所を開いていた父も建物の下敷きになって骨折し、急性症状に悩まされながら被爆者の診療に追われていた。

 職を得たABCCで、被爆者の反発を味わうこともあった。診療を拒否する人を説得に赴くと、原爆への恨みを聞かされた。採血する時には「まだ採るんか」と責められた。「気持ちが分かるだけに、怒鳴られると言い返せなかった」

 その分、後輩の医師らには「病院の患者とは違う。協力していただいていることを忘れずに」と口を酸っぱくした。ABCCが「治療しない」研究所と言われたことにも反論する。「三室に十二床があり、白血病や肺炎、痛風などの治療をしていた」と振り返る。

 「被爆者が自分の病気を原爆のせいだと思うのは当然でしょうね」と玉垣さん。ただ「医師としての直感と、統計学で導き出す研究結果とは違う」とも。残留放射線の影響調査も途中で打ち切られただけに、サンプルは少なく、結論を出すのは難しい。

 「働き盛り」は一人の科学者として、日米のはざまに揺れた時代でもあった。

(2007年6月6日朝刊掲載)

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