×

連載・特集

「放影研60年」 第3部 被爆地とABCC <2>新生児調査

■記者 森田裕美

「目的知らず」 米に報告

 米国が被爆地広島に設けた原爆傷害調査委員会(ABCC)は、発足翌年の1948年から6年間、大がかりな新生児調査に取り組んだ。被爆者の子に遺伝的影響が生じるのかどうか―。今も未解明のテーマにいち早く取り組んだこと自体が、原爆投下国の並々ならぬ関心の高さをうかがわせる。

 「出産異常を恐れる人は確かに多かった。徐々に『大丈夫そう』と分かり安心したものです」。広島市安佐南区中須の大久保ハルコさん(88)が被爆直後の混乱期を思いおこす。今も現役の助産師。70年近くの間に、8千人を超える赤ちゃんを取り上げてきた。

 「当時、出産や妊婦の異変はすぐ届けるように言われていた。ただ、私のところではABCCへの調査協力の話は聞かなかったけど、広島市内の助産師は書類を出したりと大変そうでした」

 大久保さんの暮らす中須は当時、安佐郡安村。助産師組織は旧広島市内とは別だった。「市内では、米国人が面倒なほどに調べに来る、と助産師仲間が言っていた」

 45年8月6日早朝、大久保さんは、その旧市内へと勤労奉仕に出向く近所の人たちを見送った。自らは助産師として地域を離れられなかったことが、その後の運命を分けた。顔の形も分からないほどに焼けただれ、逃げて来た人たちの看護に追われた。

 生き残った後ろめたさに胸を締め付けられながらも、戦後は助産院が満杯になるほどに、命の誕生に立ち会った。赤ちゃんに囲まれるのが、幸せだった。

 「書類や報告は米国人の勉強に役立てられたんでしょう。広島の助産師はそう信じて、職務に励んでいたと思います」

 広島市西区の医師竹本孝さん(82)は1950―54年、ABCC遺伝部に在籍した。原爆投下の翌朝、下宿先の岡山市から家族を捜して広島に入った被爆者である。米国の機関に職を求めた心境を「占領下の焼け野原で食べていくのに必死だった」と振り返る。

 最初の仕事が新生児調査だった。住所がタイプされたカードを頼りに、赤ちゃんのいる家を戸別訪問した。調査に先入観が入らないよう、親が被爆者か否かは知らされていなかったという。先天異常の有無などを調べ、帰り際には母親に、米国製せっけんを手渡した。

 「新生児のほぼ100%が把握されていたようだ」と竹本さん。米国人に上手に使われている気がして、半ばうんざりしてABCCを辞した。「指示に従って仕事をし、報告書を書いただけ」。ABCCの運営の詳細は知らされず、報告書が米国でどう使われたかも、知る由はなかった。

(2007年6月7日朝刊掲載)

年別アーカイブ