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連載・特集

「放影研60年」 第3部 被爆地とABCC <4>互いの視線

■記者森田裕美

検査 援護への活用期待

 足を踏み入れた米国式建物で、半世紀前の記憶がよみがえった。在ブラジル原爆被爆者協会会長の森田隆さん(83)は、古里の広島に一時帰郷中の3月中旬、放射線影響研究所(放影研、広島市南区)を訪れた。

 前身の原爆傷害調査委員会(ABCC)が行った被爆者検査について聞くためだった。ブラジルには今も、被爆者健康手帳を取得できていない仲間がいる。ABCCで検査を受けていれば、それが被爆者の証しとなるのではないか―。

 放影研によると、ABCC時代の1958年から被爆者を対象に継続してきた「成人健康調査」は、その健診結果を本人に報告している。

 森田さんもABCCの検査を受けた。53年のこと。結果を聞いた記憶はない。覚えているのは不快感だけという。

 爆心地から1・3キロ。憲兵として防空壕(ごう)の仕上げ作業中に被爆し、背中に大やけどを負った。3日後に動けなくなり、翌年には白血球が急増したという。妻綾子さん(82)と結婚し、時計修理業を営み、暮らしが落ち着き始めたとき、ABCCの車が迎えにやって来た。

 「家族4人が半強制的に乗せられた。私は裸にされて調べられた。二度と行かんと思ったよ」。やがて一家は、戦後を生き抜く場をブラジルの新天地に求めた。

 それから54年ぶりの放影研。かまぼこ形の屋根は当時と変わらない。職員は「現在の姿を見てほしい」と丁寧に語りかけてきた。古い検査記録も残っていると聞いた森田さんは、その場でまず、自分の記録の閲覧を申し込んだ。

 一週間ほどして封書が届いた。53年10月3日付の「受診歴記録」。英文で尿や腎機能、血液、エックス線検査などの結果が記してあった。日本人医師の報告書も添付されていた。

 「印象が変わりました」と森田さん。放影研の親切な対応に驚いた。同時に、その親切さの意味を考えると複雑な心境にもなるという。ABCCは原爆を投下した米国が設置した調査研究機関。引き継いだ放影研は日米共同運営へと変わったものの、調査研究の結果はやはり米国へ伝えられる。被爆者を大切に扱う意味は何だろうか―。

 発足当初の強引な調査が批判されるABCCは一方で、被爆者の動向に気を使った。米学士院(ワシントン)に眠る関連文書からも、米国の思惑が透けて見える。

 「原爆一号」吉川清氏に関する内部メモは、広島での被爆者組織結成への「期待」を寄せる。一方、在日米大使館職員がABCCのダーリング所長にあて、韓国の被爆者組織の動向を知らせる68年5月13日付の書簡からは「警戒感」がうかがえる。「韓国原爆被害者協会は援護を求め、すでに韓国や日本政府には接触している。間もなく米国へも求めてくるだろう」

 森田さんがつぶやく。「被爆者を意識してくれるなら、今度はそのデータをもっと、被爆者援護のために生かしてほしいです」

(2007年6月9日朝刊掲載)

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